心にゆとりのある日がある。
エレベーターに後から乗ってきた人に対して「何階ですか?」と訪ねることが出来るくらいのゆとりだ。
これにはやりたい日とやりたくない日があり、また乗ってくる人の雰囲気にもだいぶ左右する。
2つの条件が奇跡的に重なると、僕は無償のエレベーターボーイに変身する。
自分が「何階ですか?」と訪ねられるとちょっとだけ嬉しいので、自分が嬉しいことは他人にもしてあげたい。
そんなわけで、一昨日もとあるビルで、僕は無償のエレベーターボーイに変身した。
1階で一緒に乗り合わせた感じのいいサラリーマンの代わりに目的階のボタンを押し、3階で乗ってきた男性の代わりにもボタンを押した。
全てが順調に行くように思えた。
けれど、4階で30代前半くらいのイケイケな女性が乗ってきて、何もかも変わってしまった。
まさかこの人が僕の最後の乗客になるとは思わなかった。
今思えば本当にやめておけばよかった。
彼女が乗ってきた瞬間、なんとなく僕は、この人は僕を必要としていないんじゃないかな?と感じていたのだ。
僕もこの仕事をして長い。
それは彼女のエレベーターのボタンよりも大きな、主張の激しいイヤリングから見てとれた
けれど、僕の乗客たちに「コイツは人で差別しているんだな」と思われたくなかった。
何よりその日は心にめちゃめちゃゆとりがあった。
僕は勇気を振り絞り、
「何階ですか?」
と訪ねた。
返答はなかった。
その代わりに、にゅるりと横から手が伸びて来てボタンが押される。
彼女のために押そうと思い、突き出した右手の人差し指は帰る場所を失なってしまった。
そして、その姿勢のまま僕の世界は静止した。
不思議なのは僕が止まっているのに、エレベーターは依然として目的階に向かっていることだ。
僕の「何階ですか?」という言霊が、エレベーターの速度を越え、天に召されていくのが見えた。