こんなに『多様性』を騒がれている世の中で、どうしてそんなに古い考えや発言が出来るのだろう、って思う時が未だに多々あります。
「話せば分かる」と犬養毅は自分を暗殺しにきた者に言いましたが、話しても分からない人ってどうしようもないけど、いるんです。
自分を正しいと信じて疑わない人に理解を求めても難しいです。
相手を理解するということは、まず自分を遠ざけることから始めないといけないからです。
でも、だからといってそういう人を理解し合えないからといって排除するのも違う気がします。
例えばなんですけど、
あるところにドングリしか食べないリスがいて、そのリスに世界にはもっと美味しい物がいくらでもあるんだよという話を小一時間程した後、
「じゃあね」と言って振り返り彼の住む樹木の巣穴を覗いてみると、
リスはやっぱりドングリをかじっていた。
…みたいな、
結局対話を試みても時間の無駄だったじゃん!!
的な、そういうことが世代間のギャップだったり文化の違いで結構感じるんですけど、
でも同時にめちゃめちゃ恐いなって思うことがありまして…
それは、多様性や普遍性という風潮に従わない小数点以下を切り捨てていくみたいな考えです。
リスからドングリを取り上げる必要はないし、
もし、彼らが世界をドングリまみれにしてやりまっせと言って争う姿勢を見せてきたら、その時は言葉を武器に戦う必要がありますが…
逆説的に『多様性』を掲げる集団意識みたいなのが一番恐いです。
いつ自分が巣穴の向こう側でドングリを噛み締めてるかなんて誰にも分からないのですから。
コロナ以降、同調圧力というか、そういう空気が一層重くなった気がします。
多様性というのは僕は、自分に無いものを受け入れて、楽しむものだと信じています。
ちなみに全然余談ですが、
僕はマスクをつけるとき、だいたいこうやってつけます。
理由は眼鏡が曇るからです。
こういう人です。
こういう人が一番困るのよ。