昨日、冷蔵庫にある弟のプリンを見つけた、賞味期限を見ると今日までだった。
私はとっくのとうに自分の分のプリンは食べてしまっていた。
私はプリンがめちゃくちゃ大好きだ。
はっきり言って物凄く食べたい。このプリンが賞味期限ぎりぎりまで放置されてきたこのような現状に対して、マジで痛恨の極みなのである。
そこで、私は弟に「このプリンを食べていい?」と聞いたとする。
そして、弟は「嫌だ」というかもしれない、しかし、私はおそらくプリンの事をないがしろにしてきたこの弟に、一言文句を言わねば気がすまないだろう。
また逆に「いいよ」というのかもしれない。
だが、この場合も弟は実はプリンを食べたいのかもしれないし、プリンに執着していなのかもしれない。弟の本心は分からないのだから、私はまっさらな気持ちでプリンに向き合えない。
では、このプリンを放置するという選択肢も浮かぶが、それこそプリンに対する冒涜であり、これまでの私のプリン人生を否定してしまうことになる。
そして、もう1つの選択肢として、「プリンがあったよ!」と弟に教えてあげるという選択肢がある。
これはあくまで発見者、財宝は国王の物ですという「冷蔵庫のコロンブス」的なスタンスを貫かなくてはならない。しかしこの場合も弟は私がプリンが大好きなのを知っているから、快く食べれないだろう。
いっそプリンにどっちの男をとるか決めてもらいたいものだ。
皆が幸せになる選択肢はないものか。
私はプリンを見つけたが為にこのようなジレンマに陥った。
しかし、このプリンのジレンマは形を変えて社会のあらゆるとこで見受けられる。
放課後、友人達と楽しく談笑をしていたら、ふと友人の歯にのりがついてる事に気付く。
しかし、そういう人に限ってプライドの高い子だったりする。
そこで、皆の前で冗談のテンションで指摘するか。
恨みを買わないように見てみぬふりをし、その友人が何か面白い事を言うものなら「いやいや、そんな事よりも、放課後まで放置してきたお前の方が面白いわ!」と込み上げてくる笑いと小さな罪悪感に苛まれるか。
LINEで個別で事の重大さをより重々しく伝えるか。
どの選択肢を選んでも幸せにはなれない。
友人の怒りの矛先が「セブンイレブンのおにぎり100円キャンペーン」に向かう事はありえないのである。
こういったジレンマ、パラドックスは数えきれない。
貼り紙禁止の貼り紙、尊敬する一回り年上の先輩の「敬語やめてよ」発言、絶対押してはいけないボタン…。
ありとあらゆる所に無数にあるだろう。
そういう時、この小さなジレンマは我々の前に絶対的な存在感を持って立ちはだかる。
だからこそ我々は、どんな結果になろうと常に覚悟を決める必要があると、美味しそうにプリンを食べている父を見て、思った...。