今回は、前にも書いた両親が癌で闘病し、亡くなって今想うことを書きたいと思います。
少し長くなりますが、読んでいただけたら幸いですニコニコ

8年前父は多発性骨髄腫という血液の癌、母は三年前に食道癌で他界しました。共に病気がわかって2年経たずに亡くなりました。

父の時は正直何かをしてあげれたか、、自信が無かったし、後悔も沢山ありました笑い泣き
私にできたことは小さい孫を見せに病院へ行ったり、退院してからも自由に私のうちに遊びに来れたくらいで真顔そもそも父はその少し前に婿入りしていたうちから出て行っていて一人暮らしだったので。いろいろ複雑で。
病気がわかった時、普通に代行の仕事をしていて時折孫の顔を見にうちに来ていましたが、「何だか腰が痛い。ちょっと風邪ひいたみたいだ。」と言っていて、地域の内科にはかかっていたけれどなかなかよくならず。
どうにも腰が痛くて救急車で🚑大きな病院へ行ったら、多発性骨髄腫と診断されました。3クールの治療で一旦落ち着き、その間の医療費も本人は払えず、頼れるのはうちだけだったので頑張ってお金工面しましたよ〜。いい旦那で良かった笑い泣き
退院後は60歳の還暦に同級会の幹事で頑張って、体調的にも何とか行けて、、その間も今度こそ娘に少しはお金返せるかな💴と年金もらって、さらに働けるだけ働こうと思っていたようでしたが、再発笑い泣きその時はもう先生から余命幾ばくもないと聞かされました。
まあ父は知ってか知らずか、今となってはわかりません。亡くなる前の日もまだ病院で自分で何とか動いていたけれど、孫を連れて行った私を気遣って珍しく「早く帰れ」と言ってました。看護師さんにお世話になり、🚹にも1人で行けなくなったりお腹が痛いとか色々とあったかとは思いますが、覚悟していたように思います。
夜中に電話が来たけど、何だか嫌な予感がしてすぐに反応できず。数分して確認し、急いで病院へ行きましたが間に合いませんでした。

とにかく父には何もしてあげれず
後悔ばかりが残りました。
しばらくぼーっとしてました。
うちの長男は2歳前でしたが、時折じいちゃんのことを言います。「生きてたらじいちゃんと魚釣り行けたかなー?」とか。
間違いなく生きていたら、孫も私のように連れ回したでしょうね〜。昔タクシーの運転手🚖だったので車で出かけるのが好きでしたから。
魚釣りも、スポーツ観戦も沢山連れて行ったんだろうなーと思います。

第二の人生これからって時に
まだまだあれもしたいこれもしたいと
思っていたようです
それも知っていたからか
私も後悔が多くあり
母の時はできる限りのことをしたいと思っていました。

父のことだけ考えれば、
今までも自分のやりたいことを
存分にやってきてただろうから
まあねー
でも別れても母をいつか旅行に連れて行きたいと思ってたようで、それが叶わず


そしてまさかその後すぐに母が倒れるとは思っていませんでした。
私が第二子次男、その2年後に第三子長女を産んで、職場に長女五ヶ月で復帰した直後でした。

それまでも母はとにかく働きづめで、
自分の家で兄家族小学生子供3人と暮らし、
仕事の合間に我が家の洗い物や掃除などをし、
自分の兄弟のうちの草取りやら、墓掃除など
休んでる暇なく、働いていました。
そして好きな韓流ドラマをDVD借りて見まくるということを楽しみに。

そんな母も父同様、風邪すらめったにひかず
医者に行くのも年にあるかないかくらいの人で

初めは耳が痛い、食事が喉を通らないと行って
耳鼻科へ行ってました。
しかしよくならず、段々食事がまったく飲み込めなくなり、大きな病院に紹介されるもMRIの予約などで日数がかかるうちにとうとう我慢がならないほど苦しくなり、救急車で🚑病院へ。
そこですぐに食道癌が見つかり、、、

その時思ったのは、
えっ本人にすぐそこまで言うの??という感じでお医者さんって家族にも相談しないで言ってしまうの?と思いました笑い泣きそもそもうちの母、とても心配性なんで、そんなこと聞いたら、、、って。でもまあそれだけ早く治療に入らなきゃまずい状態だったのです。
何でもっと早くに検査できなかったのか、わからなかったのかショボーン検査の日はまだ10日くらい先の予定だったので。わかった時にはステージはⅣと手遅れ状態。少しでも小さくできるか、放射線治療しかないと。
大きな病院でも同じように本人にはっきりと言われました。そして本人がムンテラの部屋から出てから、「あとどれくらい生きられますか?」と先生に聞きました。
「年は言えないです。」と。それを聞いた時、

父の時のように後悔しないようにできるだけのことをしようって決めました
それからというのは子供達にも旦那にも沢山負担をかけたかと思うけど、病院通いしながら兄家族や母の姉妹と協力しながら、できるだけのことをしました。
長女がどうやって、大きくなったかあまり覚えていませんガーンでも彼女の成長が間違いなく母の生きる励みであったことは言うまでもありません

胃ろうを造設して、自己管理しながら自宅で治療することになり、職場から介護休暇いただいて三ヶ月ゆっくり母のそばにいました。思いの外、自宅での生活にも慣れました。が、抗がん剤は合う合わないがあったり、腎機能の方がダメで変えざるおえない状態になるなどあり、ついに胃に転移、悪化があり、再入院。胃ろうも入れられず、点滴のような形でしか栄養が入れられず。
それでもできる限りうちにいて、お金かけたくないという母の思いから、兄のお嫁さん、甥姪の協力の元、自宅へ。その頃にはモルヒネのようなパッチで痛みを抑えていたからか、母は久しぶりに口から食べたいものが少し食べれたり、楽しい年末お正月を過ごすことができました。
そして、訪問看護の方の採血の結果、即入院の方向になり、先生から
「今生きているのが不思議なくらいの値で、いつどうなってもおかしくない状態です。」と告げられました。
それからは私と兄が交互に夜付き添いで泊まり、仕事へ行ったり来たり。体も心も疲れ果てていましたがやれることはやりました。そして母の姉妹の協力と先生の「今日なら何とか出かけられるかな」と最後になるであろう外出へ。兄に抱えられ車椅子から車に乗って、母のオススメの浜茶屋のラーメンを私達に食べさせ、海を眺めて自宅へ少し帰れました。
その2日後息を引き取りました。誰にも看取られず。でも誰か側にいたら心配で逆に旅立てなそうな母だったので、母らしかったと思いました。



こうやって両親を見送り、想うことは

やるだけのことをやったと思えた。
母の時は
不思議と悲しみに暮れるということは
あまりなかった

やってあげたいと思ったことはすべてやった
ってことが私にとっては後悔なく看取れたことにつながったのでは、、、と。

そして人生や時間は有限。
出来ることに限界もある。タイミングも。
でも自分が後悔しないように
大切な人との時間をどう過ごすかが
大切なんだ
それをこれからの自分の人生にも活かさなきゃと

今、大切な人との時間をちゃんととれていますか?
その時間を十分楽しんでいますか?
親孝行、後回しにしてはいませんか?
子供との時間、小言や怒ってばかりになっていませんか?

大切な人が側にいるのが当たり前で
その人がどんなに自分の事を思ってやってくれていたか、亡くなったり、いなくなってから気付いて後悔したりするのは悲しすぎます

当たり前は当たり前ではない

日々の生活、日常の中にこそ
自分にとっての幸せが
沢山あるのに
気付いているだろうか
感じれているだろうか

うちの場合はたまたま癌で
発見が遅かったけれど、
それでも2年という時間
自分でできる精一杯を、
娘としてやりたい事を、
やれた気がします

母が亡くなってすぐに四人目の妊娠がわかり、本当に怒涛のような10年でしたが、
ひと段落して

私ってもしかしてこんなやってのんびり婆ちゃんになろうとしてるけど、いつどうなるかわからなくね?って、思って。
もしかしたら早くに病気になるかもだし、
やりたい事我慢している場合じゃないって!びっくり

そこで改めて
私って何がしたいのかな〜って考えるよい機会がありました。そのお話はまた次回!

拙い文章、読んでくださりありがとうございます😊