隋の文帝楊堅は本当に名君だったのか、

 

隋の煬帝は暴君だったのか。

 

これは大いなる疑問です。

 

 

 

楊堅というより煬帝の父と言った方が

 

わかりやすいです。

 

とにかく楊堅の息子煬帝があまりに強烈過ぎて

 

楊堅のことは顧みられることは少ないです。

 

 

煬帝は中国一の暴君として

 

あまりにも有名です。

 

楊堅はこの息子である煬帝(楊広ですが、ここでは煬帝で統一します)に

 

殺されます。

 

独狐皇后の死の2年後でした。

 

楊勇の自堕落さを嫌い

 

皇太子を楊勇から煬帝に変えます。

 

しかし

 

煬帝は父の側室であった陳夫人を

 

強姦しようとします。

(この陳夫人は、楊堅が滅ぼした陳の国王の妹でした)。

 

逃げて来た陳夫人からこのことを聞いた楊堅は

 

廃位した楊勇を皇太子に復位しようとします。

 

「畜生に天下を譲れるか」

 

と言ったと伝わっています。

 

自分が太子の地位を奪われようとしていることを知った煬帝は

 

先回りして楊堅を殺害します。

 

この時楊堅は、

 

「皇后をわしを誤らせたのだ」

 

と独狐皇后を恨んで死んでいったそうです。

 

 

しかし、

 

この事態は独狐皇后だけのせいなのか。

 

確かに楊勇の自堕落さを嫌い

 

楊広を皇太子にするよう熱心に勧めたのは

 

独狐皇后であります。

 

ただ判断したのは楊堅です。

 

 

そもそも陳を滅ぼした時

 

陳公主を自分の側室にしなければ

 

このような事件は起こりませんでした。

 

煬帝が皇太子になるのは運命だったかも知れませんが、

 

楊堅が煬帝に殺されることは

 

なかったと思います。

 

 

独狐皇后は側室の存在を許さなかったとあります。

 

実際には、陳夫人等側室はいました。

 

ただ「子どもができないようにした」と

 

微妙な表現を史書はしています。

 

恐らく独狐皇后生存時は

 

形だけの側室であり情交していなかったのでしょう。

 

 

独狐皇后が生きていれば

 

陳夫人が楊堅の側に侍ることはありませんでした。

 

そもそも

 

陳の公主を自分の宮殿に入れたりしなければ

 

こうした事件そのものが起きなかったかと。

 

 

中国の風水では

 

「自分が滅ぼした家の女性を

 

妻や妾にしてはならない。

 

その家は滅ぶ」

 

とあります。

 

正にこの好例であります。