石井筆子といってもピンと来ない。

 

先に紹介した滝乃川学園を設立した石井亮一の妻といった方が

 

わかりやすいかも知れない。

(石井亮一氏自身も、福祉の分野の方でないと知らないかも)。

 

 

 

男爵家の娘として生まれた筆子。

 

東京女学校入学後、その学校が廃止され

 

明治天皇の皇后(昭憲皇太后)の命により

 

オランダ公使従者として2年間渡欧。

 

 

1884年高級官吏と結婚、

 

翌年には華族女学校のフランス語教師となる。

 

その時の教え子に九条節子(後の大正天皇皇后・貞明皇后)がいたことが

 

後に大きな影響を与える。

 

 

3人の娘を儲けるも

 

1人は早死に2人は知的障害があった。

 

しかも1892年夫が病死する。

 

1893年、ミッションスクールである静修女学校の校長に就任した。

 

 

娘が知的障害だったので

 

石井亮一が経営する滝乃川学園に

 

預けていたので、

 

学園に援助をするようになった。

 

その過程で、石井亮一と再婚したのである。

 

 

ウィキペディアに筆子のことを

 

「内助の功」と書いているが、

 

「内助の功」ではない。

 

滝乃川学園の共同経営者である。

 

娘を預けていたので金銭的援助を惜しまなかっただけではない。

 

石井亮一は筆子が校長をしている静修女学校の教育となっており

 

静修女学校内部的には、部下ですらあった。

(二人が結婚したのはその後のことである)。

 

 

1921年滝乃川学園で園児の失火から火事になり、

 

園児にも死傷者が出たことから

 

石井亮一・筆子夫婦は閉園する意向を示した。

 

そこを、引き留めて施設継続の支援をしたのは

 

貞明皇后だった。

 

皇后が筆子の教え子だったからこその配慮である。

 

 

筆子がいなければ滝乃川学園が

 

存続することはできなかった。

 

1937年亮一の死により

 

2代目の学園長に就任。

 

1944年1月24日戦争の最中に死去(83歳)。

 

 

内助の功ではない。

 

共同経営者である。