「ここがブルー・ディスティニーか・・・やっと見つけたわ・・・」

 

サトルは地下に向けて続く階段を見て、そうつぶやいた。

 

マキからチラシを受け取ってから約2週間後。

 

サトルはマキがライブハウスで歌う姿を見るために、

 

代々木にあるライブハウス、ブルー・ディスティニーにやってきた。

 

インターネットで調べてはいたものの、地下に入り口があるライブハウスを

 

初見の人が見つけるのはなかなかに難しいもの。

 

サトルも、代々木駅からそれっぽい場所をさがしてぐるぐる歩き回り、

 

やっとのことで見つけたのである。

 

 

 

階段を下りたところにある入口の扉を開ける。

 

バーカウンターがあり、その背後にはたくさんのお酒が並んでいた。

 

「こんばんわ」


受付の女性に声をかけられた。

 

「ご予約のお名前をお願いします」


その女性はサトルにそう言った。

 

しかし、サトルにはまったく意味がわからなかった。

 

「あ、あの・・・予約していないと入れないんですか?」

 

「いいえ、予約は無くても入れますよ。今日はどなたを見に来られたのですか?」

 

「い、井本マキさんを見に来ました。」

 

「かしこまりました。それではドリンク代込みで3500円いただきます。」

 

「ドリンク代・・・?いや、ノド渇いてないんでドリンクいらないです。」

 

「ごめんなさい。私たちのようなライブハウスは

 

飲食店として届出を出して許可をもらって商売してるんです。

 

なのでドリンク1オーダーはすべてのお客様にお願いしてるんです。

 

どうせ飲むんだから、ということでウチはカクテルに力を入れているんで

 

ぜひお気に入りの一杯を見つけてくださいね。」その女性は終始柔らかな笑顔で答えた。

 

「なるほど・・・そういうことなら納得です。」


サトルは3500円を支払った。

 

「はい、これがチケットとフライヤーです。チケットはドリンクの引き換えにも使うので

 

無くさないように気をつけてくださいね。」

 

「はい、ありがとうございます。」


サトルはチケットとフライヤーを受け取って中に入った。

 

店内にはテーブルが数台と、椅子がテーブルごとに3,4脚置いてあった。

 

それとは別に壁際にも椅子が並んでいた。

 

ステージを見ると、向かって左にはグランドピアノ、右奥にはドラムセットが置いてあった。

 

 

 

サトルにとっては初めて足を踏み入れる世界であり、何もかもが新鮮に感じたが

 

どう振舞っていいのかわからず、戸惑っていた。

 

とりあえず、手近な所にあった椅子に腰掛けた。

 

周りを見ると、スーツ姿の中年の男性が若い女性とにこやかに話していた。

 

今日の出演者とそのファンの方なんだろうか、会話も弾んでいた。

 

手持ち無沙汰になり、サトルはもらったフライヤーを見た。

 

当然だが誰ひとり知らないので、チケットに書かれていた出演者の名前と見比べて

 

今日出演する人のフライヤーを見てみたのだが・・・サトルの興味を引く人はいなかった。

 

 

 

やることがいよいよ無くなり、ボーっとしていたら暗転してライブが始まった。

 

マキ以外の出演者の歌も聴いてみる・・・

 

しかし、彼女の歌から感じる「何か」を感じることは無かった。

 

そして、マキが出てきた。サトルはちゃんと座り直して聴く姿勢を整えた。

 

1曲目は路上で聴いたことのある歌だった。しかし、路上ライブとは感じ方が違った。

 

ここはライブハウス。音楽のための場所だ。

 

路上とは異なり街の雑踏音が無く、より彼女の歌を集中して聴くことができる。

 

そんな中で聴く彼女の歌は、よりサトルの心に響いた。

 

2曲目は初めて聴く曲だった。その曲はサトルの心により強く、心地よく響いた。

 

そうして、あっという間に彼女の出番は終わった。

 

サトルは何とも言えない気持ち良さに包まれていた。

 

初めて来たライブハウスという音楽のための空間で、

 

初めて自分から応援したいと思った歌手の歌をじっくりと楽しむ・・・

 

サトルの人生にとって初の体験であり、とても気持ちの良い時間であった。

 

 

 

ライブが終わって、サトルが帰ろうと席を立とうとしたとき、マキが現れた。

 

「あっ!来てくれたんですね!ありがとうございます。」

 

「いや、感謝されることは何もしてませんよ。ただ、僕が聞きたかったから来ただけで」

 

サトルは自分がやりたいことをしただけなので、感謝された理由が良くわからなかった。

 

「でも、路上ライブを見てくれてもライブハウスまで

 

お金を払って来てくれる人はとても少ないんです。

 

なので、本当に感謝感謝です。ありがとうございます!」


マキは笑顔で答えた。

 

「これ、新しいチラシです。twitterもやってて、ライブ情報はじめ、色々つぶやいているんで、

 

フォローしてくれたら、とってもうれしいです。」

 

サトルはチラシを受け取ると、マキに頭を下げてブルー・ディスティニーを後にした。

 

「井本マキ、か・・・面白い人に出会ったな」サトルはそうつぶやいた。

 

 

 

それからというもの、サトルはマキのライブによく足を運ぶようになった。

 

路上ライブはもちろんのこと、ライブハウスでのライブにも通うようになった。

 

ブルー・ディスティニーにも何度も足を運んだ。

 

受付にいたあの柔らかな笑顔の女性は

 

南場さんというこのお店のオーナーさんだということも、

 

マキに教えてもらった。

 

南場さんはマキと同じく新潟出身で、同郷の誼でマキのことを気にかけてくれているらしい。

 

そして、マキの歌を聴いたときに感じる心地よさの理由について、

 

サトルはその探求をやめた。

 

ポジティブなことの理由を延々と探し続けるのは無駄だし野暮だと思ったからだ。

 

 

 

立春も近づいたある日のこと。サトルはいつものようにマキの歌声を聞くべく、

 

ブルー・ディスティニーにいた。

 

この日、マキは新曲を初披露した。その曲の名は「ハミングバード」といった。

 

彼女自身の過去のつらい経験と、それでも前向きに生きようという想いをしたためた歌詞と、

 

明るく軽やかなメロディーに、サトルは非常に感動して思わず涙を流した。

 

「マキさん!あの新曲とっても良かったです!!」


サトルは興奮しながらマキに伝えた。

 

「ありがとうございます!この歌に託した想いをどうやったらちゃんと届けられるのか、

 

考えに考え抜いて言葉を選んで歌詞を書いて、その歌詞に似合うメロディーを作りました。

 

サトルさんの心にしっかり届いてうれしいです!」


マキは大喜びだった。

 

 

 

一方、この頃サトルの職探しにも変化があった。

 

先輩の村田が勤める会社の部署が新しいメンバーを募集することになり、

 

村田はサトルにオファーを出した。そしてサトルは迷わず挑戦することにした。

 

条件的に不満があったところは多少あったが、今回はほとんど気にしなかった。

 

今まであれだけ難癖つけていたサトルが急に変化した理由は大きく2つあった。

 

ひとつは大恩ある村田のオファーであったこと。

 

さすがのサトルも村田の誘いとあらば無下に断ることはできない。

 

村田もまた、サトルの能力の高さと癖の強さを知っていたから

 

自分のオファーを受け入れるように、あれこれ調整したのだ。

 

このことにサトルは非常に感激し、村田に深く深く感謝した。

 

もうひとつの理由はマキの存在であった。

 

マキの出ているライブにいくと、彼女以外の歌手の話を聞くことも当然あった。

 

彼ら彼女らの話を聞くと経済的に楽ではないのは容易に想像できた。

 

マキ自身もアルバイトをしながら音楽をやっていることを、サトルは知っていた。

 

マキと知り合って数ヶ月、マキの熱心なファンになったサトルは

 

「マキの歌がもっと多くの人に届いてほしい!」


と願うようになっていた。

 

もし、自分が就職できればマキのことを今まで以上に助けてあげられるのではないか。

 

そうしたら、マキはより音楽に集中できる・・・サトルはそう考えるようになっていた。

 

そのためには少々の我慢など何でもないことだった。

 

 

 

そして、サトルはマキのことを「一人の歌手」としてだけではなく、

 

「一人の女性」としても魅力的に感じ始めていた。

 

音楽に対して真剣に取り組む姿。そして、サトルと話すときに見せる明るい笑顔・・・

 

決してすごい美人でも、スタイル抜群なわけでもない。

 

だが人として快活に生きる姿は、

 

どんな女性よりもサトルには魅力的で心惹かれていったのだ。

 

しかし、サトルは村田のオファーの話はせず、マキと会うときも平静を装った。

 

前者は正式に決まってからマキに話して驚かせたかったから。

 

後者はそういう態度を示してしまうと、よそよそしくなってしまいそうだったから。

 

 

 

春も間近なある日のライブの後のこと。マキの表情が冴えなかった。

 

サトルは心配したが、マキは「ちょっと考え事してるだけなので、心配しないでください」

 

とサトルの気遣いに感謝の言葉を述べたが、サトルの心には何か引っかかるものがあった。

 

 

 

東京に桜の開花宣言が出た日。サトルにも吉報がもたらされた。

 

内定の連絡を受けたのである。

 

サトルはこのことを誰よりも先にこのことをマキに伝えたかった。

 

この日はマキが路上ライブを行う予定の日。

 

はやる気持ちを抑えられずにマキがライブを行う場所へと軽やかな足取りで向かった。

 

 

 

 

しかし・・・マキはその日その場所に現れなかった。

 

アルバイトが忙しいのかな、それとも体調悪いのかな?

 

でも、マキさんはそんなことしたことないのに・・・

 

 

 

サトルの心配は現実になった。

 

彼女が出る予定だったライブはすべてキャンセルになり、

 

twitterやブログも一切の更新が止まった。

 

サトルの世界から、マキは忽然と消えてしまった。