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筑紫哲也さん
https://encount.press/archives/783704/
◆TBS「筑紫哲也 NEWS23」より
http://www.tbs.co.jp/news23/old/
◆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E5%93%B2%E4%B9%9F
◆筑紫哲也さんの著書。「Yahoo!ブックス」より
http://books.yahoo.co.jp/book_search/book?p=%C3%DE%BB%E7%C5%AF%CC%E9&target=3&limit=&sid=&view=1&sort=0&sortorder=-1
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「沖縄の恩人だった」 筑紫さん死去、県内関係者言葉失う
11月8日10時30分配信 琉球新報
筑紫哲也さん死去の知らせを受け7日夜、親交のあった県内関係者は一様に大きなショックを受けた。沖縄問題を番組や記事で積極的に取り上げ、全国に伝えた筑紫さんの仕事ぶりをたたえ、死を惜しむ声が聞かれた。
TBSのNEWS23のエンディングに使用された「黄金の花」を作曲した音楽プロデューサーの知名定男さんは、37年来の付き合い。「人間としてもジャーナリストとしても尊敬していた」と言葉を失った。「僕のことをやんちゃ坊主なんて言ってね。番組スタッフからも父親のように慕われ本当に懐の深い人だった。勇気を何度も頂いた」と別れを惜しんだ。
元県知事の大田昌秀さんは「筑紫さんは米軍基地問題をはじめ沖縄に関する数々の取材を手掛けてきた。沖縄にとってかけがえのない恩人を失い、大きなショックを受けている」と話した。「たまたま昨晩(6日夜)筑紫さんがなじみにしていた県内の店で、周りの人たちとどうしてるかな」と話したばかりだったと言い、「残念で言葉にならない」と死を悼んだ。
筑紫さんから度々、インタビューを受けた前県知事の稲嶺恵一さんは「沖縄のありとあらゆる問題に精通し、県民の気持ちをくみ取っていた姿勢が番組に流れていた。沖縄への思いを持っていた方だった。寂しさを禁じ得ない」と語った。
最終更新:11月8日10時30分
筑紫哲也さん死去:「大きな星消えた」 日田名誉市民、古里に喪失感 /大分
11月8日16時1分配信 毎日新聞
7日亡くなった県出身のジャーナリスト、筑紫哲也さんは、故郷を忘れず県内のさまざまな活動を支援し続けた。特に筑紫さんを「名誉市民」に迎えている日田市民は、突然の訃報(ふほう)に「日田出身の偉大な国際派ジャーナリストを亡くした。郷土のために活躍してくれ、感謝しても感謝しきれない」と大きな喪失感に襲われた。【楢原義則】
筑紫さんは同市で小学校時代を過ごした。故郷への思い入れは強烈。93年にまちおこしグループが「市民大学の名誉学長になってほしい」と頼んだところ「名誉職は嫌だ。やるなら学長としてきちっと務めたい」と快諾。94年から「自由の森大学」を立ち上げて学長に就任し、副学長に政治学者の福岡政行さんを引っ張ってきた。
06年3月までの12年間にわたり毎年10回、開講。幅広い人脈を生かして中央の政財界人や文化人、学者らを講師に招請し、若者たちに深い感銘と知識を与えた。当時、大学の実行委員長を務めた原田啓介さん(49)は「気さくな方で、兄貴分、親父のような存在だった。一流の人々の謦咳(けいがい)にふれることが出来たのも筑紫さんのおかげ」とその死を悼んだ。
一方、筑紫さんは06年11月、市から「名誉市民」の称号を贈られた。自由の森大学の功績や国際派ジャーナリストの軌跡をたたえたもので、当時市長の大石昭忠さん(66)は「健康状態がよくないとは聞いていたが、こんなに早く」と言葉を詰まらせた。
また、広瀬勝貞知事は「郷土の先達として『自由の森大学』などを主宰していただき、県民の学びの機会を与えていただいた」とコメントした。佐藤陽一日田市長も「大変驚いています。地域活性化、文化振興など有形無形のお力添えや、市民を導いていただき、大きな星が消えた悲しさと寂しさを感じます」と悼んだ。
11月8日朝刊
最終更新:11月8日16時1分
NEWSに生きた筑紫哲也さん死す
11月8日11時23分配信 デイリースポーツ
ジャーナリストの筑紫哲也(ちくし・てつや)さんが7日午後1時50分、肺がんのため都内の病院で死去した。73歳だった。07年5月、メーンキャスターを務めていたTBS・MBS系報道番組「筑紫哲也NEWS23」の番組内で肺がんであることを告白。以降、休養して闘病を続けていた。葬儀は近親者のみで行い、後日にお別れ会を開く。
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「がんに打ち勝って、また戻ってきます」-。
番組内での力強い宣言から約1年半。気鋭のジャーナリストが、家族にみとられ、静かにその戦いを終えた。
筑紫さんは先月、肺に水がたまり手術。この時点で、がんは肺から全身に転移していた。今月1日には、呼吸困難から危篤に陥った。このときは、一命を取り留めたが、7日、ついに息を引き取ったという。
筑紫さんは、07年5月に「-NEWS23」で肺がんを告白して以降、治療に専念するため18年間務めた番組を休養。スペシャルアンカーとして数カ月に1度のペースで出演していた。今年8月11日に、番組内で不定期に放送されていた「明日への伝言第3回」で哲学者の梅原猛氏と対談したのが、最後のテレビ出演となった。
新聞記者でありながらテレビの世界でも活躍。「ニュースキャスター」の先駆けとして放送ジャーナリズムの確立に力を注いだ。朝日新聞社記者の77年から、テレビ朝日系「日曜夕刊!こちらデスク」の司会でテレビ界に進出した。84年から「朝日ジャーナル」の編集長に就任。当時の若者を指す「新人類」という言葉を世に広めた。
朝日新聞を退社後の89年から「-NEWS23」のキャスターに。ロマンスグレーの髪と柔和なほほえみ、落ち着いた語りと鋭い切り口が高視聴率を生んだ。特に、独自の視点で世事を論評するコーナー「多事争論」は人気に。また「今日はこんなところで」という番組の締めくくりでのセリフもおなじみとなった。
96年3月、TBSがオウム真理教の幹部に坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題では同番組で「TBSは死んだに等しい」と発言し、大きな反響を呼んだ。新聞、雑誌、テレビとメディアの第一線を渡り歩いた自らを“漂流者”と表現。視聴率競争に明け暮れ、商業主義に傾き肥大化したテレビメディアに警鐘を鳴らし続けた。
プライベートでは、熱狂的な広島カープファンで知られた。たばこは1日3箱吸うほどのヘビースモーカーだった。がん発覚後、きっぱりやめたというが、「たばこの代わりはない。一服できないと面白くない」と語っていた筑紫さん。これからは、心おきなく紫煙をくゆらせていることだろう。
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◆東京大空襲 東京都慰霊堂 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2
◆広島平和記念資料館
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/
◆長崎原爆資料館
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/na-bomb/museum/
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◆「思い出してみて。様々な事。」より
http://sousakuhanabi.g3.xrea.com/kousi/index.htm
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常に健康に気を配る動機付け。2005年。
https://yabusamekandou.seesaa.net/article/487198201.html
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