『アメリカン・フェノメノン(アメリカ現象)』
ジョン・フィリップ・スーザ伝
ポール・E・バイアリー博士著
高橋誠一郎訳
(東京国際スーザ研究所 所長)
●アーサー・フィドラーによる序文
1971年のワールド・シンフォニ-・オーケストラが創設された時のことである。
音楽監督だった私は、適切なプログラムを創るにはどんな曲で構成すべきか、やっかいな問題に直面していた。
なにせ66か国の演奏家で構成されるオーケストラを率いるのである。
アメリカ合衆国が主催国であることは周知していたので、1曲目にコープランドの<市民のためのファンファーレ>で幕開けし、最終曲にはスーザの<星条旗よ永遠なれ!>をアンコールで演奏しようと決断した。
スポンサー企業のスポークスマンたちは、スーザの作品を演奏しようとする私に対して、幾分批判的だった。
「愛国心鼓舞につながる」と世間が騒ぐのではないか、という危惧を抱いていたのである。
しかし私は断固として反論、こう説明した。
「<星条旗よ永遠なれ!>は偉大な音楽であり、独立した1曲の名曲として聴衆を魅了するであろう」と。
果たして結果はどうであったか。
この作品は壮麗なグランド・フィナーレとなり、すべてのコンサートでスタンディング・オヴェイションを巻き起こしたのである。
諸外国から来たオーケストラ・メンバーたちも、凄まじい熱狂とともに演奏に臨んでいた。
実際彼らの表情には、この作品を演奏したことに喜びと大いに満足を感じている様子が、見て取れたのである。
金管演奏者たちが、今では慣例となっている、このマーチの華々しいグランド・フィナーレに向けて立奏しようとした時、その中に私のこの選曲に最も共感してくれた人物、われらのテューバ奏者がいた。
この人物こそ、ポール・バイアリー、この本の著者である。
特別に際立ったこのマーチをはじめ、多くのスーザ・マーチは世界中で知られている。
スーザ・マーチがそのような全世界にアッピールする魅力を持っているのはなぜなのか、この質問の答えはいたって簡単である。
スーザ・マーチはこの形式の音楽の中で最高のもの、だからである。
私は以前から、敢えてこう言ってきた。
「スーザのマーチは、ベートーヴェンのシンフォニ-と同じくらい立派なものである。むろん、マーチというカテゴリーにおいての話しであるが」
私は永きにわたってスーザを崇拝してきたが、恐らくその理由は、彼の音楽哲学が私のそれと同じものである、ということによる。
この哲学とは、簡単に言えば、民衆が良さのわかる曲を演奏すること。
その曲を可能な限り立派に演奏すること、以上の2点である。
なんと多くの退屈で無味乾燥な音楽が、文化の仮面を被り公衆の前に供物として提供されていることか。
馬鹿げていないか。
実際のところ、それらの音楽は公衆に何かしら役立っているのだろうか?
公衆が理解できる音楽なのだろうか?
このような想いが、キャリアの浅い若き日のスーザの胸中に去来した。
以後彼は徹底的に、公衆が本当に聴きたがっているものを探究してゆくことになった。
スーザのプログラムは、クラシック音楽から街で流行しているメロディまで、幅広いレンジを持っていた。
自分の聴衆がわかるであろう、と思えるものはすべて含まれていたのである。
しかし、演奏そのものは一切妥協しなかった。
どんなに取るに足らぬ曲であっても、完璧に演奏した。
恐らくは、当時の指揮者の誰よりも、音楽的貴族趣味というものを減少せしめたのがスーザである。
自らの表現手段として、スーザはコンサート・バンドを選択したが、彼の信条はすべての種類の音楽形態に当てはまるものである。
あらゆる形式の音楽に深い関心を抱いている私は、スーザの信条を同じく固く信じている。
スーザ氏と同様に、私も「蜂蜜があれば、もっと多くのアリを捕らえることができる」ことを学んできた。
これらの信条を応用することで、スーザは裕福な人間となった。
それゆえに、彼は何か正しいものをし続けていた、ということに違いない。
『スーザの音楽哲学』と名付けられた第4章は、すべての人にとって興味深いものとなろう。
待望久しい本格的なジョン・フィリップ・スーザの伝記が遂に書かれた。
この著者の調査がどれほど完璧なものであるか、読者の方はすぐに理解されるだろう。
この本は、アメリカの音楽史上における、永い間の空白を埋めてくれるものである。
健全でエンタティンメント性のある音楽の持っ、全音域にわたる幅広い理想を信じる人、そしてその理想の保持に一生を捧げたある一人の人物のことをもっと知りたいと願う人、これらすべての人たちにとって、この本が注目の本となることを心より願っている。
つづく
●アーサー・フィドラーについて
Arthur Fiedler
1894年、マサチューセッツ州ボストン生まれ。
1913年、第2 ヴァイオリン、ヴィオラ奏者としてボストン交響楽団に入団。
1924年、25名編成のボストン・シンフォニエッタを結成。
1930年、スーザ・バンドにインスパイアされた、ボストン・ポップス管弦楽団を創立。スーザ流のミックス・プログラムによる、楽しめるシンフォニック・ポップス・コンサートで、永年人気を博した。
スーザのマーチを6曲レコーディングしている。
1979年、84歳で死去。