お坊さんの第一の修行は布施行なんです!!
というと、ちょっと変な感じがしましょうけど、これ第一義です。
なんで変なのかというと、布施=お布施というように考えているからであって、お坊さんに渡す謝礼のことを布施と思っているから、お坊さんがお布施?お坊さんにお布施じゃないの?となってしまいます。
お坊さんに渡すお布施は皆様が修行しているのですよ。
お礼という意味合いもありますが、執着や慾から離れる修行でもあるのです。
仏さまのような優れた人格を得るには、まず施しをしなければならないのです。
自分にできることを他者に施してこそ、仏さまのような慈しみある存在となるのです。
だから、お坊さんこそお布施を要求するのではなく、皆様に尽くす布施をしないといけないのです!
でも、どうなんだろう?
現実は、多額は寄付をあおぎ、高額なお布施を要求し、お経を唱えるだけで、お話せず、他よりもいい生活をしていれば、当然人の心は離れてゆきますよね。
仏教は因果という根本真理を唱えているのだから、そんな原因を作れば、結果として仏教離れしますよ。
「お葬式にお坊さんはいらない」
「供養はAmazonでお願いする」
なんてことになります。
Amazonのお坊さん派遣サービスに仏教会は猛反発しておりますが、因果の道理を理念とする仏教は何も言えないんじゃないの。
供養に高額なお布施を要求し、車代やら御前代やら心付けやら、一般の人の心を感じず、思うようにしてきたことの結果なのでは?と思ってしまいます。
俺はしていない!と誰かは言いましょうけど、している人がいるから、こんなことになるのです。
ちゃんと、お坊さんの第一義である布施行をしていれば、こんなことにはならなかったのでしょうね。
先日お客様からこんなお話を聞きました。
(ちょっちゅういろいろなお坊さんの仰天話を聞きますけどね)
法事をお願いしてお布施を渡し、親族で寛いでいると一本の電話が。
お坊さんから「お布施を開けて見たら入れ忘れたんじゃないの?」と。
そんなはずはないと思いつつも失礼があったことをお詫びすると、
「いや、0が一つ足りないから持って来なさい」ですって!
親族で協議して、手持ちの現金を集めて、お寺に持って行ったとのこと。
こんなことするから、Amazonで定額料金で法事したくなるんですよね。
布施行を勘違いしているんじゃないの?
いや、それとも、皆様のお金に対する執着を取り除くべく、お金を手放すというお布施行をさせてあげているのかな?