朝令暮改という意味は、命令や政令などが頻繁に変更され一定しないこと。
朝に出した命令が夕方には改められるということからなる四文字熟語。
先日、次男を寮に送り届けるべく早朝に運転しており、寝ずに課題をしていた次男は車で寝たかったのでしょうが、私と思想について話をしていたので眠れなかったみたい。
(次男の思想の進展度が図れる男二人だけの時間)
冬休みで帰って来ていた高2の次男が、私の書斎から何やら読み物を探して、「孔子」の本を読みたいから貸してとのこと。
読み進めては、ちょくちょく儒教についての話をしてあげておりました。
ちょうど、孔子の本を読んでいたようなので、朝令暮改ということについて話してあげました。
今使われている意味では、ころころと変更されて一定しないというようないい意味では使われておりませんが、もともとの話は違います。
国民が幸せに暮らせる社会を作るべく儒教の教えを礎にして政治を行い、すべての国民を幸せに導くという孔子の祭りごとに対する話であった。
孔子はみんなが幸せに暮らせる社会の為に生きており、皆が幸せに暮らせる社会が実現するのなら、私は今死んでもいいと話しており、朝にその政令により幸せが実現するのであれば、夕方に死んだとしても後悔はないが、命令や政令が時の為政者の私欲のために変わるのでは、夕べに死んでしまっては困ることになるという、朝令暮改であってはたまったものではないとの話から、今の用途に至ったことを話しをしてあげました。
すると、それはカッコいい生き方だね!と感想があり、それでお父さんは後悔しないように生きているんだね!と話すので、またまたお話。
私の後悔しない生き方は書物から学んだものではなく、動物たちの命から学んだ教えであることを話してあげ、私は大学生になるまで読書などしたことがないことを話してあげて、今の思想はすべて生活の中から考えたもので、書物は自分の思想の再確認でしかないと話してあげました。
仏教や儒教は今を生きる人生の教えであって、あの世の思想を説くものではありません。
今を生きる教えなら、なにも宗教から学ばずとも、動物たちの生き様から学ぶことが出来ます。
動物たちは過去のことを引きずらず、未来のことを憂いず、今与えられている環境で精一杯生きるということをしております。
だから、瞳が綺麗なのですよ。
私たち人間も子供の頃のように生きれたら、瞳が綺麗なままなのでしょうね。