私は五感が敏感かつ繊細。霊感も強い。

 

 昨今、洗剤以外も、後残りする香りが増え、不快な臭い、視界、音が、以前にも増して増えた。

 

 ・LEDのきらきらギラギラした照明

 ・人工的なフローラル系、甘ったるいキャラメル系、温泉?偽癒し系の香り…

 ・スマホのゲーム音、などなど、数え上げたらキリがない。

 

 こんなにも、五感をかき乱すものが、多くなったのは、スマホやSNSの影響か?

 

 私が生きた、かつての昭和は、そういう意味では、五感に優しい世界だった。

 

 人権無視など、情緒的には無視されがちで、生きにくい世界だったけれど。

 

 歯を食いしばって生きてきた昭和世代。

 

 それでも、前を向いていく根性や向上心は培われた。

 

 環境によって、磨かれたのだろう。

 

 今の若者世代は、売り手市場。

 

 それなのに、何か大切なものが抜け落ちている感が否めない。

 

 どこにでも就職可能な状態が、実は、

 

 当の本人達を余計にぬるま湯に浸からせているのかも?

 

 叱らない教育=物事の善悪を教えず放置することではない、ということ。

 

 自分で選択した結果の責任を取るということは、どういうことか。

 

 人権や人格の尊重というものの捉え方を、誤認している風潮もある、日本の教育。

 

 生き甲斐や成長、情熱は、人から自動的に与えられるものではなく、自分で工夫して創り出すもの。

 

 人から指摘されて始めて知る、客観的な視点、自分の欠点やまずさもあるはず。

 

 それを人権侵害だとか言う前に(行き過ぎているものは、もちろんNG)

 

 自分を振り返る視点も必要なのでは?完ぺきではない人間なのだから。

 

 働くということは、あなたの努力、才能、気配り、魅力、

 

 頭からひねり出した工夫、労力を差し出して、金銭をもらう、ということ。

 

 挫折や苦労、悲しみ、怒り、歯がゆさ、恥ずかしさ、などの感情も時として必要。

 

 味覚が甘さだけだったら、本当の甘さを知ることが経験としてできない。

 

 苦さや辛さ、酸味も味わうことによって、甘いこともより甘いと感じるもの。

 

 苦い経験こそ、実は、成長の大いなる種なのに、

 

 そこを最初から排除しようとするのは、ちょっと違う。

 

 今の若者世代が持ち得なかった宝物を、予期せずに私達、

 

 氷河期世代は、実は感覚として得ていたかもしれない、とも思う。

 

 苦しみの種類や質、程度は違っても、「当たり前」を見直すことが大切。

 

 あなたという人は、一日でぱっとできたものではなく、

 

 家庭や社会という、目の前に当たり前にある環境や人によって、

 

 一日一日と強化して、何十年と無意識に創り上げられてきたものだから。

 

 あなたの当たり前が、実は当たり前ではなかったとしたら…?

 

 核家族になり、家族の中の当たり前は、かなり独創的なもの。

 

 無意識に入っているものは何だろう?

 

 一人一人が見つめ直す時だ。

 

 私も日々、無意識の中身を確認中。

 

 話が逸れたけれど、そんな五感が脅かされる今日この頃、

 

 私は、電車がずっと苦痛だった。

 

 人の想念も敏感に感じるし(エンパスなので)耐え難い空間だけど、

 

 ある時、夫がぽっつりと言った。

 

 「何も考えずに、電車のガタンゴトンという音を聞いて、

 

 流れる景色を眺めていると癒されるよ」と。

 

 そうすると、あら不思議。電車のガタンゴトンが、癒しの時間になった。

 

(不快な臭いを感知したら即、座席移動。人が少ない時間帯に乗る工夫も必須)

 

 さすがに、都会の満員電車は、ちょっと勘弁だけれど、

 

 (それでも旅行中は我慢して乗るしかない…)

 

 ちょっとだけ、電車が好きになってきた、今日この頃。

 

 自分を幸せな方向にちょっとでも向くように、

 

 考え方の視点をシフトすることは、とても大切。