やっぱり気になって、動画配信で最初から最後まで見ました。

 

 見ることができた自分にまず驚きました。主人公の娘の心情がわかりすぎて、終始、胸が苦しくなりましたが、当時の感情が激しくかき乱されるようなところまでは、いきませんでした。

 

 それだけ、過去の事実を、過去の感情を、前よりも冷静に受け入れることができてきた、回復の度合いを知る指標になりました。

 

 私は、彼女のように、激しい教育虐待を受けたわけではありません。精神的虐待の形態も、千差万別です。その家族特有の形態もありますし、それを受けた年月や程度の深さも、人それぞれです。

 

 しかし、どのようなケースであっても、根っこの部分は同じです。

 

 親に愛されなかった子どもは、健全な愛情とは何か?が、経験を通して、理解できていません。

 

 だから、どんなに自分の親からの育て方が嫌なもので、その親を反面教師にして、我が子にだけは、自分と同じような思いをさせないと、意識する心で決めても、我が子との境界線の意味も分からず、接し方も、尊重の仕方も、何もかも、結局は、自分がされてきたように、無意識にしてしまう、ということです。

 

 私の母は、祖母から、妹弟の誕生と共に、家族を支える小間使いのような役割を強いられました。夕方、薄暗いのに、山のほうまで行って、1人で洗濯をさせられたり、夕飯を作らされたり、病弱な弟の保護者のような役割を強いられたり…。

 

 妹弟が生まれる前までの幼少期の母は、とても陽気で、父の職場で、楽しそうに歌ったり踊ったりする朗らかな女の子でした。

 

 それが、妹弟が下に生まれると状況が一変してしまう悲しい事実…。どんなに心細くて、自分の方に関心を向けてほしくて、話を聞いてほしくて、自分の立場や心模様を、わかってほしかったでしょうか。

 

 幼い自分の心に寄り添ってほしかったか、涙が出るほど、私も母の幼少期の心情がわかります。そんな悲しい感情をたくさん、心の深い部分に抑圧して、その感情が出てこないように、何重にも鍵をかけて、歯を食いしばって大人になりました。

 

 けれど、その扉は、我が子を目の前にした時、隠すことはできない、心の海に沈めた感情や想いが、我が子を通して、刺激されます。

 

 救うべきは、目の前の子どもである前に、自分自身なのです。

 

 そこをなかったことにしてしまうと、心の悲しみの闇は、我が子にも伝わってしまいます。

 

 私は、心の深い部分では、生まれた時から変わらず、母を想っていますし、大切な存在です。

 

 しかし、だからと言って、娘の人生を、母をただ慰める為だけの道具にしてはいけません。依存は、更なる依存を引き起こし、底なし沼に落ちていく行為です。

 

 父がよく冗談で、「蟻地獄」だと言っていましたが、それは事実でした。

 

 私は親を殺すことも、かといって、自分が死ぬ、という選択も、不幸だと思います。

 

 どんなに話し合っても分かり合えず、支配や依存の形態をとる、自分の人生が壊されているなら、血の繋がりがあったとしても、離れて、お互いに生きた方が賢明だと考えます。

 

 愛と呼ばれるものが、傲慢や偏見を生み出しているならば、それは健全な愛情ではありません。健全な愛情は、少なすぎず、多すぎず、適度に与えられるものです。

 

 子が窒息して身動きが取れなくなるほど、干渉、束縛、執着、支配することはコントロールで、与えた本人だけが、真の愛情だと思い込んでいるだけで、実際には、毒なのです。