「母の日」この時期になると、ネットでもお店でも、母の日プレゼントのアピールが過熱する。

 

 販売側にとっては、イベントにかこつけた購買戦略であっても、私は、自分の育った境遇が、異常な機能不全家族であり、両親過干渉、母娘の重度共依存という事実を知ってからは、とても複雑な心境で迎える日となった。

 

 カウンセリングによって、深くて重く根深い洗脳を少しずつ紐解き、自分がいかに苦しみ続けてきたか、自分が、長い年月をかけて、幾度も失い続けてきた「本当の心」を探し当て掘り起こす、という過程を辿っていく日々の中、迎える母の日は、重くのしかかる、呪縛のような日となった。

 

 共依存であることを知る前は、率先して、「母の日」のプレゼントをせっせと買っていた。

 

 毎年お祝いをして、母に感謝を表す事は、当然のことだと信じて疑わなかったし、今ある私は、母のお陰(母なしには存在していない私だから)世界中の誰よりも、この日はいつも以上に、母を喜ばせ、労う日なのだと信じていた。

 

 しかし、カウンセリングを受ければ受けるほど、これらのことに、強い拒絶感と違和感を感じずにはいられなくなった。それでも、カウンセリングを始めてからの数年は、今までと変わらないように、「母の日」を私なりに祝い、贈り物をしてきた。

 

 でも、ある時点から、強烈な違和感を払しょくできなくなり始めた。

 

 洗脳が解けていくにしたがって、親の言動の数々に、私の心を最初から全く無下にして、ないものとして扱い、親の言うことを何でも聞く娘、という前提で進められる会話や態度に、次第に強い拒否感が蘇ってくるようになった。

 

 今までも感じていたはずの、この拒否感は、深い洗脳のお陰で、感知不能状態にセットされていた。でも潜在意識には、膨大な数々の悲しみが、確実に蓄積していくので、私は、正体不明の息苦しさや苦しみを常に感じていた。

 

 ひとりで、母に贈り物をすることに苦痛を感じ始めても、母の日に贈り物をしない、という選択肢は当初全く考えられなかった。

 

 何もしないでいることは、私の心に、強い罪悪感を呼び起こす。その罪悪感の重責に耐えられないから、私は兄を誘い、共同で贈り物をすることにした。

 

 そうすれば、私ひとりからではないし、また、母の日を祝うというスタンスを崩すことにもならない。しかし私は、その日を境に、ぱったりと母の日の贈り物どころか、何らかのアクションも一切辞めた。

 

 それは、後から聞いた、母の日の母の様子を聞いて、恐ろしくなったから。

 

 母は、自分の心を自分で満たすことが出来ない依存者だから(エネルギー供給源は、娘である私に設定されている)娘が母に何かすることを、常に欲している。

 

 だから、念願叶った時、母は恍惚としたうっとりとした、満足感と心の充足感を得るのである。

 

 ーあんなに嬉しそうに、幸せそうな表情を、久しぶりに見たー 

 

 兄から、その話を聞いた時、私は怖くなった。自分の心を満たす対象を、人に、しかも娘である自分に設定されている、というのは、とても辛い呪縛だった。

 

 ー常に私は、母を喜ばせないといけない存在ー 

 

 それは、私が意を決して、自分からその役割を強い決意と信念を持って降りなければ、永久に続いてしまうのだから。

 

 精神的に自立した大人は、自分の心は、自分で満たす術を持っている。

 

 周りが何かするかしないかによって、自分の心を保てなくなるほど、天と地ほど激しく揺れ動いたりはしない。この姿勢は、親であってもなくても、人が健全に生きていく為には、とても大事なことである。

 

 でも、私の母のように、アダルトチルドレンの人は、それができない。できない人が目を向ける先は、一番手っ取り早く、自分の心を満たしてくれる存在になり得るのは、我が子なのである。それが、機能不全家族という事態を生む。

 

 我が子は、親である自分を一番愛し、尊敬している。決して裏切ることはない存在。子は、親から健全な愛情を受けて、本来はすくすくと育つのだが、これが叶わなかった人は、枯渇した心を、子によって満たしてもらおうとする。

 

 それはもう無意識に平然と当たり前のようにやってのけるので、自覚が全くない。

 

 いつも充分すぎるほど我が子の事を思っている、理解のある親とさえ自負している。でも、実際には、母娘の役割が逆転しているのである。

 

 私からの一切のコンタクトを辞める。そう決意した私は、次の年に迎えた母の日は、その日が近づく度に、罪悪感が募った。

 

 心が落ち着かず、いてもたってもいられず、母を喜ばせずに何もしない娘の私は、母を不幸にしているという幻想に悩まされた。

 

 母はどう思うだろう?どれだけ不安だろう?どれだけがっかりするだろう?どれだけ内心怒っているだろう?父はどうか?兄はどうか?

 

 芋づる式に、どんどん不安が大きくのしかかって、自分の下した決意を、今すぐにでも覆して、贈り物をしてしまえばいいのではないか?そう思う時もあった。

 

 でも、そうしたら、また元の木阿弥に戻ってしまう。せっかく、カウンセリングで、本当の心を取り戻してきているのに、今までの、たくさんの悲しみと対峙して、逃げずに日々頑張っているのに、それが台無しになってしまう。

 

 もう心の中には、たくさんの拒否感、拒絶感を肌で感じることができるようになっていて、しかも、それが心の容量一杯なのに、「何もしなくない」という、私の明確な意思を無視して、また昔と同じように振る舞うことは、私には到底できなかった。

 

 ー自分の意思を心の海底に深く沈めて、自分を無下にして苦しむことは、もうこれ以上、絶対にしたくない!!ー

 

 だから、私は罪悪感一杯でも、自分の決めた意思を貫くことにした。

 

 ・その次の年の母の日…「母の日」に関するニュースを見る度に、心が痛んだ。

 ・そのまた次の年の母の日…でもまだ「母の日」を快く思えなかった。

 ・さらに次の年の母の日…何もしない自分を責める心の声が小さくなった。

 ・そのまた次の年の母の日…何もしない自分を肯定できるようになった。

 ・さらに次の年の母の日…「母の日」を意識しなくなった。

 

 少しずつ、時の経過を経て、何でもない日のように思えるまでになった。

 

 今は、ニュースを見ても、贈り物をしたい人は、していいと思うし、他人は他人、自分は自分、と割り切れるようになった。

 

 毎年、訪れる「母の日」によって、自分の心の回復度を図る、目安の日になった。

 

 母娘共依存の人にとって、「母の日」に何かすることは、自分の心を蝕む行為。

 

 ただ、自分の意思だけで心からしたいと思えるならば、やっていい。ただし、本当に本心からやりたいと思っているのか、一度よく考えてほしい。

 

 母を喜ばせることに心や身体に重たさが伴うなら、本当のあなたは、やりたいとは思っていない、ということ。

 

 私は洗脳中は、喜んでやっていたが、自分の心の蓋を開けてみたら、義務であり、呪縛であり、自分を窮地に追い込む行為でしかなかった。

 

 母の日を、何の心の引っ掛かりもわだかまりもなく、自分の為だけに過ごせるようになることが、幸福になる人だって、この世の中にはいるのです。