のんびり散歩をしていて 幼稚園のそばを通った

 

 あんなに 楽しそうに 大きな声を出して

 

 その瞬間を 思い存分 何も気にすることなく 遊んでいる

 

 そんな様子を見ると いつも とても 微笑ましく感じる

 

 それと同時に あんな風に 無我夢中で 

 

 自分の「楽しい!」という感情だけに浸れる環境を

 

 とても 羨ましく感じる

 

 私には それが 一瞬たりともなかったから…

 

 当時も 夢中で遊ぶ子と 自分とは 何が違うのだろう?と

 

 ずっと 答えが出ない疑問を 考え続けていた

 

 子どもらしくいられなかった事実は 人生に 暗い影を落とす

 

 それは 私の両親も 祖父母も ご先祖様も そうだったのだろう

 

 両親が生きた時代は それが当たり前で 

 

 反骨精神で 生きることがやっとで 

 

 本当の心を 取り戻すことなど 思いもよらず 

 

 傷ついた心のまま 人生を終えるのだろう

 

 でも これからの時代は 不遇な環境に生まれ 生きてきても

 

 自分の本当の心を 癒して 修復して 育て直し

 

 命があるうちに ありのままに 生き直していく時代

 

 犠牲者として 生きてきた両親は

 

 これが 愛情だと信じて 子を育てた

 

 真実は 依存や支配で 愛の形は 歪だったけれど

 

 それでも 確かに そこに愛は在った

 

 小学校低学年の頃 お誕生日会が 流行って

 

 私も 友達を家に招いて やってもらった

 

 母は 自分の子は 特別だけれど

 

(子は自分の願いや思いを叶える存在だったから)

 

 子ども自体は 好きではなかった

 

 それでも 私の願いを 叶えてくれた

 

 大変だったはず たくさんの手料理と準備

 

 会の途中で 些細なことで 誰かが泣き出して

 

 その仲裁役をしたのも 母だった

 

 内心 勘弁してほしい と思っただろう

 

 健全な愛情の与え方と 子の思いや 人格を尊重することを  

 

 親から 経験を通して 教えてもらうことがなかったから

 

 健全な愛と 尊重を 我が子に 与えることはできなかった

 

 どうか これから いくつもまた 生まれ変わる

 

 どこかの来世では 見たくなかった 自分の心の闇を

 

 なかったことにしないで しっかりと 見つめる

 

 強い人に なってほしい 

 

 自分の心を きちんと救い出し 自分のことを

 

 心から 無条件に たくさん愛して 

 

 自分で自分を 満たせる人になってほしい

 

 そして いつかまた 子を持つ時には 

 

 子の 本当の気持ちがわかる 親になってほしいと願う

 

 たくさんの悲しみを乗り越えて 

 

 たくさん 悲しみ 怒り 恨み を感じて

 

 出し尽くした その先に 

 

 親を赦せる時が いつか 訪れるのだろう