私は、生まれてから、40数年余りも、母の望む通りの娘を、不本意ながら生きていました。

 

 自分の意思で全て選択している、と激しい錯覚を起こすほど緻密に、その役割に徹していました。そこまで強化し続けた役割を脱ぐことは、簡単ではありませんでした。

 

 でも、小さなことから、自分の意思だけで選択する「練習」、人前でちゃんとしなくちゃと脅迫してくる癖を手放して、他人の目よりも、自分のしたいことを優先する「練習」、恥をかいてもかかなくても、自分の価値は全く変わらないよと、自分を勇気づけ、励まし、ブレない自分軸を育てる「練習」、良好な人間関係を築くための、新しい人との境界線の感覚をつかむ「練習」なんでも、トライ&エラー、精神的にも自立した自分になる為の、いろいろな「練習」をしています。

 

 「恥をかく練習」というのは、認知行動療法の中の、暴露療法のひとつとして紹介されているのを知りました。

 

 実際に、他人が変に思う恰好や仕草をしてみて、恥をかくことに慣れる、というもの。そのようにして、人と関わることを苦手にしたままにせずに、あえて、飛び込むことで、克服していくというものです。

 

 私は人が関わる場面では、無意識に人の意向を汲み取り、自分の意思やニーズを軽んじる癖があるので、それも、とにかく場数をこなして「練習」です。

 

 自分の意思で物事を決められなかったACは、まずは、他人が関わらない部分から、始めると良いそうです。例えば、好きな家具を揃える、などなど。

 

 私は、生まれてから結婚するまで、何か買い物をする際、いつも母がべったりと、くっついてきていました。(以前、過去記事でも触れました。)

 

 それが無意識下では嫌で嫌で、ついには喧嘩になり、洋服は「一人で買う!」と宣言して、それからは、自分で買うようになったものの、家に帰ってくれば、「見せて」と母は言い、母なりの批評が入るのでした。

 

 その当時は、自分の感覚を麻痺させているので、今ほど鮮明には、自分の気持ちを捉えることはできませんでしたが、せっかく良い気分で買ってきても、「まぁまぁね」だったりすると、なんとなく着る気分が失せてしまったり…。母の批評によって、落胆したり、喜んだりしていました。(他人の肯定、評価が基準だったので)

 

 何度も計画した一人暮らしは、数度目でやっと、兄の助けを借りて、決行したものの、初めての一人だけの部屋に置く家具達も、全部母が一緒についてきて(というか、母に連れられて)買い揃えたものでした…。

 

 母は、私一人では何も決められない娘と決めつけていましたので、(母が役に立つ存在である為には、娘はダメな存在でなければなりませんから。)完璧主義な母は、「この日に行くよ!」と言い、行く店も、買う内容も、全部、母の計画通りにしなくてはいけません。(しなくていいんですけどね、本当は…)

 

 行きたい気分でなくても、行かなければならない。買いたくなくても、その場で買わなければならない、いろいろな「ねばならない」が、多すぎて、雁字搦めで、窒息しそうな息苦しさに苛まれていました。

 

 母の意識下では、娘が良いと思うものを、選ばせて「やっている」という感覚ですが、もう、隣にいるだけで、母の存在を意識せざるを得ない状況下では、純粋に自分の意思だけで好きなもの、を選ぶというのは、困難でした。(そもそも、自分の意思だけで決めることすら、許されていない環境下だったからです。娘の意思=母の意思という思い込みを持っている、自分と子を同一視する母ですから。)

 

 それでも、その当時は、初めての経験に、少しは、わくわくしていました。

 

 しかし、今現在、カウンセリングにて洗脳を解いた私が感じるのは、どの家具にも、母のエピソードが絡んでいて、その存在を重たく感じるようになりました。

 

 今、ひとつひとつ手放して、入れ替えていっている途中ですが、とても処分したくてたまらないソファと絨毯が、なかなか処分する業者が見つからなかったりで、どっかりと私の部屋に居座っているのです…。

 

 その家具を見る度に、母の想念を感じてしまう…。これほどまでに、心の奥深くにまで浸透し、影響を受けているのだなと痛烈に実感しています。

 

 何度もめげそうになるのですが、今年こそは、できれば、ここ1,2か月位の間には、どうにかして、新しい、今の私に合っている家具を揃えて、心地良く感じる部屋に変えていきたいと意気込んでいます。