ACだった私は(今、どの地点まで回復しているのかは、さっぱりわかりませんが…)、痛々しい恋愛ばかりしていました。もはや、恋愛とは言えないレベルだったと思います。
まさに、盲目的な恋、思い込みだけの、乾ききった砂漠の心を、紛らわしたい激しい衝動、欲求に常に駆られ、愛情を渇望していたからです。今、冷静に考えると、一体、どこが良かったのか?さっぱりわかりません(笑)まさに、無意識のなせる業としか言いようがありません。
過干渉も、立派な毒親の一形態です。親に構われる子は決して幸せではありません。そこには、子だけの意思の尊重、信頼がまったく存在していないからです。親の価値観に雁字搦めになり、自分の力は無力化され、何もできない、窒息しそうな心模様で生きていきます。
過干渉、共依存を、まさに、「真綿で首を絞めるように」と表現されますが、その通りです。「あれ?なんか苦しいな。おかしいな。親から大事にされ、愛されているはずなのに???そう感じる、私がおかしいのかな?」と思うわけです。
親の無意識下では、確信犯ですから、じわじわと、子が「自分が悪いのではないか?」と感じるように、罪悪感を刺激していくのが常套手段なのです。
私は母から「こんなに大切に育てられた子はいない。あなたは本当に幸せ者よ。」と何度も、言われて育ちました。だから、なんだかわからないけれど、心は苦しくて仕方ないのに、私は幸せ者だから、なんか私が間違っているのだと、いつも、最後には自分がおかしいせいにして、納得させていました。
母からだけではなく、父からも、周りの人達からも、「大事にされて幸せね。」としか言われませんから、何にも疑う余地がありません。
でも、苦しいと感じるあなたは、何も間違っていないのです。むしろ、あなたの無意識下からの、警報です。正しい感覚なのです。過干渉や共依存が、異常であることを、もっと世間一般に知れ渡ってほしいと願っています。
さて、話が逸れましたが、ACの人は、その枯渇した無意識下の渇望を、他から補填しようと、恋愛やその他のものに依存することになります。その代表例が、恋愛相手です。
盲目的に好きになり、自分を全て投げうって、相手に全力で飛び込んでしまいます。どんなにひどい仕打ちをされようと、耐えることを一番強化してきた人生ですから、どんなに危険なことさえ、冷静に物事を見ずに、耐え抜いて、添い遂げようとしてしまいます。
自分を大切にするという観点が、欠落しているので、まさに、相手の思うつぼなのです。相手は、次第に重いと感じるようになり、離れていくか、そこを悪用して、支配していくかのどちらかになりがちです。
とても危険な恋、といえますね。相手が良心的な人ならばいいのですが、そのような偏った関係はいずれ破綻に向かいます。大きな痛手を受ける前に、どうか、自分の心を冷静に見つめ直してほしいのです。
私はなぜ、相手に盲目的になるのか?と。それを紐解くのは、あなたの育った環境と、親との関係性に鍵が必ずあります。
探すべきなのは、結婚できる相手ではなく、空洞化した自分の心と対峙し、満たしていくことの方が先なのです。そうすれば、自分に見合う、相性の良い、素晴らしい相手は、自ずと引き寄せられてきます。
そこに気づくまでに、私も無限のループを幾度となく繰り返しましたが、脱出するきっかけは、自分の人生の中で、不健全に繰り返す固定されたパターンに注視することです。
どの家庭にも、光だけでなく、必ず少なからず闇もあるものです。ただ、その闇があまりにも大きすぎると、生きていくことが、私のように、困難を極めます。家庭内の闇は、外部には漏れないように、内密にしますから、周りからはさらに気づきにくいのです。
自分の心と人生を適切に守り、健全にしていくためには、自分で気づくしかありません。現時点で、自分は幸せだと感じている人であっても、自分の原家族を、冷静な目で検証することは、大切なことです。
そして、できれば、私のように40年も経ってからではなく、十代、二十代位には何らかの出来事や、学校の教育などで取り入れて、早い気づきを促し、人生の軌道修正を図れる社会になってほしいと願っています。
不遇な家庭環境に生きても、自分の心は、何歳からでも育て直す事ができるのです。親から与えられなかった健全な愛情や信頼、尊重は、自分の手で、巻き返していくことができるのです。
自分の心の中にある、不健全な思い込みを一掃して、好ましい思い込みを植え付けていきましょう。簡単ではないですが、私も諦めず、一歩ずつ進んでいっています。