「自立した大人」は、揺るぎない自己肯定感があり、自分に対するどっしりとした信頼、自分の心の中で思うことに敏感で、自分が今、どんな状態かを、しっかりと感じ取ることができて、軸がブレても、それに対して適切なケアができる。
湧いてきた感情の奥にある、自分がどうしたいか?というニーズに気づくことが出来て、それを自分に叶えてあげることが出来ること。
脳内に、自分のことを一番に良く知る、最高のコンシェルジュがいるような感じ。
悲しい時、怒っている時、辛い時、苦しい時、嬉しい時・幸せな時だけでなく、どんな状態であっても、自分を無条件に受容し、自分の面倒を見ることが出来る。
健全な家族で育った人達は、それが無意識に当たり前に、感覚的にできます。
揺るぎない自分軸があり、嵐が吹き荒れても、柳の穂のように、どんなに風に激しく揺さぶられても、最終的にはきちんと真ん中に戻ってこれる。健全な自分軸は、柔軟性があることで、とても強靭なのです。
ところが、機能不全家族で育つ人達は、混乱した、不安定な環境を生き抜くことに精一杯なので、自分の心模様、ニーズよりも、周りの様子、状態に全関心を注ぎ、少しでも安定を保とうと、小さいうちから、自己犠牲の精神で生き抜きます。
健全な愛情の欠落によって、健全な人との境界線を築けないことで、健全な自己を形成することが、子ども時代に出来ませんでした。
人はわずか3歳の時に、自分のことを周りがどう扱っているか、ということを通して、自己の在り方を決定すると言われています。
幼い子どもは誰でも、最初は、いろいろな感情を表現し、共感してもらい、受け止めてももらうことで、「この感情を出してもいいのだ」という確認と、「自分がここにいてもいいのだ」という確認をするのです。
そうすることで、安心を得られ、健全な愛情として受け取り、自己肯定感を少しずつ深めていきます。
「お母さん、これ見て」「お母さん、僕の話を聞いて」「こんなことがあったよ」「悲しかったよ」とはっきりわかる言葉で言うこともあれば、まとまらない拙い言葉で、心の内をなんとか表現するなど、様々な確認を求めて、子は親へ、絶えず自分を表現しようとします。
ところが、機能不全家族の場合、この幼気な涙ぐましい、子の表現を親が阻害します。アルコール依存症の親で、酔っぱらっている、あるお母さんは情緒不安定で寝ている、など、子が表現した時に、怒鳴ったりする親もいたりします。
不思議に思われるかもしれませんが、過干渉、共依存でも見られることです。
私は、小さい頃から、母に、自分の出来事や思いをあまり言ったことがありませんでした。おそらく、イヤイヤ期もなかったはずです。もちろん思春期の反抗期もありません。いつも母は忙しそうで、家事を完璧に切り盛りすることに夢中で、私へ関心を向けてもらうことは皆無でした。
母が関心を向けるのは、私が母を気遣い、世話した時だけです。おそらく幼少期、自分の話を聞いてもらいたかったけれど、空気感で、聞いてもらえる感じではないことを肌で感じ、黙っていたのだと思います。
そのような扱いをされた子どもは、「この感情を出してはいけないのだ」ということを学び、同時に「私は大切にされない」「私はここにいてはいけないのだ」というメッセージを受け取ります。
子にとって、「無視される」ということは、一番心を挫かれる、見捨てられ体験となります。これが繰り返されると、子の心に、常に「見捨てられ不安」が付きまとうようになります。
子と対話をする。親が、子の思いを受け止め、共感し、適切な声をかける、ということは、子にとって、健全な自己を形成する上で、とても重要なことなのです。
お母さんは、その時忙しいかもしれない。具合が悪いかもしれない。どうしても、子に関心を向けられない場面はあると思います。それでも、対話の重要性を理解していれば、後からでも、子に説明をして、話を聞いてあげるという修正ができるようになるのです。
健全な自己を形成できなかった人達は、この重要なプロセスを親から受けていません。それだけでなく、まだ身に着けるべきではない、一人前の大人のように振る舞い、問題を解決する能力を持つことを、親から期待されたりするのです。
だから、自分の心に焦点を向ける癖がついていません。自分の本心を抑圧してばかりいたので、もはや、自分が何を感じているかさえ、わからないのです。
抑圧してきた感情の開放ができ、不適切な信念を健全な信念へと変えながら、自分で自分を満たす力、自分のことを認める力、自分の感情を感じ取る力、自分の欲求(ニーズ)に気づき、それを叶えるということが、自分の生きている実感を得るうえで大切になってきます。
子どもの時に、身に着けることができなかった、自分の感情の取り扱い方は、大人になってからでも学べばいいのです。
私はかつて(今でも時々あります)感情に溺れ、振り回されてばかりで、感情の渦にいつも飲み込まれて、もがいていました。でも、なぜ、そのようになっていたのか、今ならわかります。
悲しんだり、怒ったりしている時に、その感情を否定していたからです。ネガティブな感情を圧倒的に多く感じていて、本当の私は、もうこれ以上感じたくなかった、逃げたかったのだと思います。
しかし、否定することによって、感情はさらに大暴れします。本当は、感情に、良いも悪いもありません。悲しい、苦しい、怒っている、それも大切な、自分の感情なのです。
感情が湧いた時、その感情に、「やあ」と声をかけてあげる。という表現がありました。「今、怒っているね」「そこにいていいよ」と。
そうすると不思議なもので、その感情は「認められた」「ここにいていいのだ」という確認になり、安心し、少し緩みます。感情に、「自分の心の中にいていいよ」と許可を与えるのです。
感情に振り回される人は、多くの人が、この「認める」「受け止める」という確認をしていません。それは、私も含めてです。
もしあなたが、次、悲しかったり、怒っていたり、苦しいと感じた出来事があった時、この、「感情に声をかける」ということをやってみてください。
声に出して「私は今、怒っている」というのも、とても有効です。怒りに囚われている時、人は、自分が怒っていることさえ、気づいていません。怒っていることに気づくと、ちょっと、怒りのサイズが小さくなるのです。
それができたら、「どうしたの?何に対して怒っているの?」と、一歩踏み込んだ質問をしてみます。ちょっと落ち着いてきてからがいいです。
自分が、何が原因で怒っているのか、本当はどうしたかったのか、その理由がわかれば、もう一歩先に進めます。
感情の正体がわかれば、ずいぶんと感情のサイズが小さくなり、自分がどうしたらいいのか、少しずつ分かるようになってきます。
私もまだ練習中です。私と同じように、感情に振り回され、困っている人は、ぜひやってみてください。