過去を振り返る時、ダメだった自分の証拠集めに意識が集中していたけれど、回復度が増すにしたがって、少なからず、良い記憶の場面もあったのだということにも気づく。

 

 私は、「いないふり」の役割も持っていたから、家の外では、極力、自分の存在を消した。だから、学生時代の集合写真を見て、「こんな人いたっけ?」と言われるようなタイプだった。常に大人しく、仲良しだと思っている人の影に隠れて、ひっそりとしている私。

 

 でも、人は、失敗したりと、自分にとって手痛い経験、ネガティブな事を強く記憶するけれど、逆に、心から無心で何かをやっている瞬間もまた、鮮明に脳内の記憶に強く残り続けるもの。

 

 中学時代、女性の熱血指導の音楽の先生がいた。その先生は、生徒の積極性を強く評価する先生だった。その影響からなのか、はたまた先生の指導の仕方が良かったのか、生徒をその気にさせるのが上手だったのかもしれない。そんな先生の前では、私は、とても積極的になれた。

 

 生徒を指導する先生は、とても大事だなと改めて思う。相性が合わなかったり、生徒のやる気を阻害するような先生だと、生徒は途端にやる気をなくすし、その教科事態も嫌いになりかねない。その位、指導者というのは、大事な存在。

 

 私は先生運が、極めて悪い方だった。良い意味で記憶に残る先生はほんのわずか。先生に関しては、嫌な記憶の方が多い。えこひいきをする先生もいたし、理不尽なことで怒られたことも多かった。私の心に、「自分は人より下の存在」がインプットされていたから、そういう人を引き寄せたのだけれど…。

 

 中学では毎年、「合唱コンクール」があった。その時期になると、クラス別で、歌う曲をみんなで決めて、クラス対抗で、コン合唱クールに励む。私は、合唱は別に好きでも嫌いでもなかった。歌も下手だったけれど、なぜか、一生懸命に歌った。

 

 ひとつのことに、共に向かうイベント。みんなで力を合わせてやることの素晴らしさも、その時に知った。歌手は一人でも、素晴らしい歌声を披露できるが、例え、歌が上手ではなくても、人数が増えれば、素晴らしいものになることもある。

 

 今でも、忘れられない曲がある。「大地讃頌」という曲である。元は、混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」だったが、ピアノ伴奏版ができたことにより、最終章の「大地讃頌」が、中学校などの教育に取り入れられるようになったものだそう。卒業式で歌った経験のある人も多いのではないか。

 

 オーケストラバージョンもとても良いが、私はピアノの壮大な伴奏が、今でもとても好きだ。記憶と強く結びついているからだろう。

 

 私のパートは、アルトだった。先生がある授業の時、各パートの人を、みんなの前で歌う人を一人ずつ募った。その時、私はとっさに手を挙げた。ソプラノ、アルト、テノール、バスそれぞれが、クラスのみんなの前で歌う。先生は、このハモリの共鳴をみんなに聴かせた。

 

 引っ込み思案な私が、よく人前で歌を歌ったなと、我ながら恥ずかしくも思うが、意を決すれば、時として大胆な行動もとれる、そんな私の一面が出ていたなと思う。その片鱗は、昔からあったのだなと感じた。

 

 歌詞は、とてもシンプルだけれど、なぜかとても心に響く。みんなで歌うことに、何か強い波動が発しているような感覚がした。4つもパートがわかれているけれど、それを一緒に歌うと、同じ音程をみんなで歌うのとは全く違う、歌の深みが出る。

 

 人もそうなのだと思う。それぞれの違いが、合わさった時、相乗効果を醸し出す。自分のパートを他のパートに引きずられずに歌うことは、自分軸を確立して、それを表現していることと似ている気がする。違っていていい。違うからこそいい。

 

 人の好みは、好き嫌い、快不快はあっても、良い悪いはない。優劣もない。日本の教育もそういう方針になっていってほしいと思う。そうすれば、不登校に悩む子どもも減るのではないか。周りと違うと悩む、子どもやお母さんもいなくなるだろう。

 

 親子であっても、別の人格。全部一緒ということはない。「個」を認め、尊重し合える社会になってほしいと、そう思う。

 

 「母なる大地」を、感謝し、褒めたたえる日本であってほしい。