回復のステップに当てはめて、自分を振り返る時、「ずっとダメだった自分」を証明する過去の記憶ばかりが、どんどん浮かんできていたのだけれど、確かに、健全な人との関わり方を知らなかった私は、NGな言動もたくさんあったけれど、そんな自分さえも最近は、愛おしくなってきた今日。
だって、一生懸命に、たくさんの制限や誤った思い込み、それは機能不全家族の環境の下に、適応するために、本当の自分を犠牲にしてまでも、乗り切るために、身に着けたもの達だから。私の一生懸命に生きた痕跡なのだから。頑張った自分を、私は愛おしく抱きしめたい。最近は、そう思える。
雁字搦めだった苦しい心の足かせ達を、ゆっくりと自由で楽な方へと緩めていく。そのプロセスを味わうと、私は決めてきた魂。親に対して、本当に根深い恨みつらみを味わい尽くして、それもこれも自分が選択したんだよね、としんみりと納得し始めている。
毒親育ちの人にとって、究極の願いとは、「親に真実を知ってもらって、心から謝ってほしい」ではないだろうか。
詫びてくれたら、今までの苦労も一瞬で洗い流せる。ずっとわかってくれなかった、究極の相手が、私の気持ちを理解してくれたら、どんなに嬉しいか。私の親はやっぱり最後には理解してくれた。そう思いたい。でも、その願いが叶うことは、多分、ほぼない…。
その事実さえも受け入れた上で、じゃあ、変わらない親であっても、これから自分が幸せに生きていくには、どうするか?
そこに人生の舵を切った時、「自分の人生を謳歌し尽くす」このことだけに、力を注ぎ始めると、人生で見える場面が変わっていく。その人自身の生命力が満ち始める。他人に明け渡した主導権が戻り始めるから。
親を赦せるかどうか。それは「許さなければならない」そう思っている時はまだ、赦せる時点ではない。そうしなければならない、と義務感を感じている時はまだ、赦せる心の準備はまだできていない。私はそうだった。
また、親への恨みつらみを見なかったことにしても、「赦し」は決して訪れない。「不当な扱いを受けた」これは、れっきとした事実なのだから。
恨みつらみが出ることは当たり前のこと。それに向き合わないことは、本当の自分を、自分自身が不当に扱うことと同じ。だから、辛くても、しっかりと向き合って欲しい。その気持ちと。しっかりと感じることが許されなかった、感情達をしっかりと感じきってあげる。そうしてあげると、その感情達は満足して、解けていく。
赦しとは、自分を究極まで許し切った後に、自然とおのずと訪れるギフトのようなもの。私はそう思う。
「自分の気持ちをとことんまで、どんな状況下でも優先させること」「自分の願い、ニーズを叶えてあげること」これを、自分の中に定着するまでやり遂げる。それが、機能不全家族育ちの人達にとって、とても重要なことだと思う。
「変わらない親」からの要求が来た時、今の私は、自分の気持ちを優先できるか?そのお試し試験だと思って欲しい。親であっても、嫌ならば、応じる必要はないのだから。
あなたが、どうすることが一番、楽で心地よい選択なのか。それを、いつも自分に問いかけてほしい。