人は産まれ落ちて、最初は親に全依存の状態で世話をされる。愛情を受け、世話をしてもらいながら、自己肯定感を育てる。最初は、周りが自分をどう扱うかによって、その反応から自分というものを理解して、自分の心の土台を築いていく。
幼い子どもは絶えず、親へ確認を求める。悲しい時、辛い時、怒っている時、嬉しい時、幸せな時、どんな状態も親にそれを表現し、話を聞いてもらい、共感してもらうことで、自分がここにいてもいいのだ、という安心感と、この感情を出してもいいのだ、という確認をしながら、ひとつずつ許可が広がっていく。それが可能な状態だと、健全な自己肯定感が育まれ、個としての揺るぎない心の土台が出来上がる。
しかし、この一連の行動が妨げられる時、子どもは、この感情を出してはいけないものだ、というメッセージとともに、自分はここにいてはいけない、私は大切にされない、という確認に変わり、自己肯定感ではなく、自己否定感が心の土台を形成していくことになる。
親も親である前に、ひとりの人間だ。親にもいろんな事情がある。働きながら育児をしている人もいるだろうし、体調がすぐれない時だってある。親の介護問題などもあるかもしれない。幾重にも重なった事情があれば、子のことだけに構える余裕がない場面も、もちろんあるだろう。
しかし、基本的な状況よりも、もっと大切なことは、親自身に自己肯定感があり、自分軸が形成されていて、自分を大切にできているかどうか。親自身が人生を楽しんでいるかどうか。それが、一番重要、かつ根本的なポイントだと思う。それができる親は、子を尊重することはどういうことか、体感できる。自分自身を尊重するという姿勢を通して。
逆に、親自身が機能不全家族に育ち、自己肯定感がなく、自己否定という心の土台である場合、この一連の、子どもの確認行動を無意識に妨げるようになってしまう。親に、感情を切り捨てられた経験のある人は、同じように、子の感情を軽視し、切り捨てる。怒ってはいけない、悲しんではいけない、過度に喜んでもいけない、など。
私の両親が、私の感情を切り捨てたのは、「怒り」や「悲しみ」などの感情を親(私の祖父母)に許可されなかったので、親がこの世にいない今でも、自分自身に認めていないままの状態だからだ。自分に許可が出来ていない感情を、子が表現すると、嫌悪感、拒否感が出る。だから同じように、子の感情表現を嫌い、否定する。
どうやって人の自己肯定感が育つのか、ということを理解している人ならば、子の確認行動を妨げないはずだ。その行為が、子にとって、どれほど大切なことかわかっているからだ。仮に、自分がその時、忙しかったり、心の余裕がなくて、子に応えることができなかったとしても、後から修正することが出来る。どうやって修正するかを知っている人ならば。
とはいえ、機能不全家族は、全体の8割を占めることを考えれば、幼少期に心の傷を持っている人はとても多いはずだ。それを自分の力で、修正、変更していく時代に来ている、と私は思う。
ある人は、自分の環境から、ある人は、子の不登校などの現象をきっかけにして。
いつからでも遅くはない。自分の心の土台を、ぐらぐらする自己否定感から、どっしりとした自己肯定感へと建て直していくことができる。自分の心の家を、揺るぎない安心できる場所へと立て直していこう。