自分がブログを書くようになってから、たくさんの人達が、ブログを書いているんだなと実感する。本当にいろんな人がいる。ブログで集客してビジネス展開している人もいれば、自分の思いを綴っているものまで、多種多様だ。

 

 私は、初めはブログというツールはあまり好きではなかった。パソコンで表示される文字よりも、温もりのある手書きの文字、デジタルよりアナログの良さを大切にしたい派である。

 

 かつてのカウンセラーからブログをお勧めされたことがあったが、それでも書こうという気には、その時はならなかった。人から促されてーというのが、好きではないこともあるけれど、「この私が、一体何を書くの?何を伝えられるの?」という感じだった。

 

 でも、心のどこかで、いつかはブログをする日が来ることを何となく知っていた。半ば、書かなければならない、という使命感すらあった。なぜかはわからない。

 

 ただ心の奥深くにある、何か深い思いから派生するものだった。ブログのタイトルは、カウンセリングを受けていた割と初期の頃に、ハンドルネームに至っては、実は10年以上前から頭に浮かんで、決めていたものだった。

 

 意を決したのは、5月(私の誕生月)に星読みをしてもらった人の言葉だった。

 

 その人に、「なぜ、私はこんなにも過酷な人生を選んだのでしょう?」と尋ねた。そしたら「それはもう、このような体験をして乗り越えたということを、あなたが伝える人になるからです。」と言われた。ありきたりのセリフかもしれないけど、それで腹を決めた。機が熟した、という合図に感じた。

 

 働いていた頃、スピーチをする機会があった。人前で話をする、というのは、とても緊張するけれど、なぜだか、心の底から伝えたい熱い思いが、とめどなく泉のように湧いてきた。そして、話すことに没頭している時、自分の魂とコネクトしているような、不思議な感覚がして、涙が出そうになる時もあった。

 

 その頃は、自己肯定感が、-1000位だったので、話が良かったと褒めてくれる人がいても、どう返したらいいのかわからなくて(こんな私を褒めてくれるの?という驚きに近かった。)どぎまぎした。

 

 結局、その職場は、私にとっては、全く持って合わない所だったので、後からは、冷めた目で見る人もいたことも知っている。話は良くても、その人が嫌いだから、と心で弾く人もいた。話の内容と、その人を好きかどうかは無関係だと思うが、嫌いだと思えば、あらゆる面で拒否反応が出るのもまた、人間の自然の摂理かもしれない。

 

 自分が自分らしく、本来のあるべき姿で生きていない時は、出会う人達も、自分を認めてくれない、アウェイな場所に居合わせることが多い。

 

 私が、私を素晴らしい大切な存在として、扱えていない時は、周りの人達が、それを教えてくれるような状況になる。周りも、私を粗末に扱う、という現実を通して。(その状況の中、私を大切に思い、付き合ってくれた僅かな人達には、今でも感謝。)

 

 話が逸れてしまったが、沢山の方のブログを拝見する中で、沢山の情報に溺れそうになる時もある。何が真実なのか(その人にとっては、どれも真実だろうが)自分に合うものなのか、よく吟味せずに飛びつくのは良くないなと私は思った。特に自分が何か、とても知りたい情報だったり、答えを誰かのブログに求めようと、躍起になりすぎるのは、危険かなと感じた。

 

 そういう時は、自分の中のエネルギーがちょっと下がっていて、探すアンテナも、感度が鈍っていることが多い。人は、エネルギーが減ってくると、無意識に他から補填しようとする習性がある。

 

 けれど、自分の心を満たせるのは、自分以外にはいない。そんな時は、一度立ち止まって、自分が喜ぶこと、リラックスできることを、自分に真っ先にしてあげることの方が、遥かに大切だと思う。

 

 機能不全家族で育った人は、自分を満たすことが、最初はなかなかできない。何をすればいいのかさえ、わからない。それを見つけることも、最初は簡単ではないけれど、少しずつできるようになっていけるので、あきらめないでほしい。

 

 答えは全て、自分の心の中にある。ゆっくり、じっくりと、自分と向き合うことが、何より大事だし、自分を満たせていて、リラックスできていると、不思議とその時に、出会う情報はホンモノで、自分にとって、間違いがない。生きていくうえで、自分の心を自分で満たしていくことほど、大切なものはないかもしれないな、と思う今日この頃である。

 

 トラウマがあっても、どんな時でも自分に優しくする、それが一番大切なこと。