本が大好きで知識だけはたくさんあった私。AC(アダルトチルドレン)という言葉も、かなり昔から知ってはいた。初めてその関連の本で手にしたのは、「アダルト・チャイルドが自分と向き合う本」アスク・ヒューマン・ケア研修相談室(著)だった。

 

 絶賛共依存中で、深い深い洗脳状態にある時には、どこかそれが、他人事のように感じて、自分のことだと、あまりピンと来なかった。本と共通する思いを感じるものの、「私の家族は、みんなと、とても仲が良くて、世界一素晴らしい家庭」だと信じ込んでいたから、我が家に、深刻な問題が蔓延っているとは、思いもしなかった。洗脳状態は、人の正確な判断力、洞察力を奪う。

 

 家族の問題の中でも、「共依存」「過干渉」は、表にとても出にくいと思う。身体的な虐待なら、親も子も、周りも、それがよろしくないことを、自覚している。だからこそ、親は、周囲に気づかれないように、何事もないかのように演じるのが上手だ。でも、いろいろな痕跡を残すので、気づかれやすい。

 

 しかし「共依存」や「過干渉」は、とても仲が良いようにしか周りには映らない。だから、私のような立場の人は、生きづらさを抱えつつも、誰にもそれを打ち明けられないという状況に陥りがちだ。打ち明けたところで、否定しかされない。

 

 私は、カウンセラー始め、そういう立場の人の前でさえも、基本的に自分の原家族のことを話すことはない。(自分の専属の人以外)カウンセラーによっては、被害者意識を伴った過去の感情の吐露などに嫌悪感を示す人もいるようだ。被害者意識は、ゆくゆくは克服していくものだけれど、その時、その人が思った気持ちや言葉は、どんな状況でも、否定されるものではないと私は思う。被害者意識でいる期間が、その人には必要だったのだ。実際にスタートはそうなのだから。当時の思いは、その人にしか分かり得ない、と私は感じる。

 

 同じ、「共依存」や「過干渉」でも、人によって、程度の重さも、一律ではないとも思う。自分と同じか近い位の深さや重症度を経験している人でないと、そこは分からないかもしれない。程度が軽い人から見ると、重い人は、そんな所にずっといても、時間の無駄のように感じるのではないか。私は何度かその経験がある。だから、基本的に言わない。

 

 自分の心を前向きに自動運転、修正できるようになっている人から見たら、感情が落ちている状態の人をもどかしく感じたり、呆れたり、「早くそこから抜ければいいのに」と感じることもあると思う。(もちろん、そこを寄り添える、心優しい方もたくさんいる)深い深い谷底まで落ちた人は、浮上するまでに時間がかかる。私みたいなエベレスト級は、それを体験済みだ。だから、お話し会とかも気軽には参加しない。一対一ならまだいいけど、複数人いると、その人達の話を聞くだけで、容量一杯になってしまい、自分の話をリラックスして話すことなどできなくなってしまう。

 

 今は理解してもらえない人がいても、あんまり動揺しないかもしれないけれど…。そこは、自分軸が育ってきているのだなと感じる。そういうマイルールを決めておくと、とても楽でいられることに最近、気が付いた。ここ最近は、そんな人達をサポートするカウンセラーや医師などが、出てきているので、優しい世の中になってきたなと感じる。ただ、まだまだ認知度が低いような感じも否めない。

 

 私の親や、親戚世代の人達まで浸透するのは、果たしていつになるだろう。浸透したとしても、当事者は、理解しないと思うけれど、子どもが小さい頃から、例えば、日頃関わる学校など、周囲の人がそれとなく、やんわりと伝えられるような、家庭の在り方を確認し合えるような社会になってほしいと思う。子どもの頃から、心の取り扱い方や、感情と向き合う方法、自信を深めていく方法、自己肯定感とは何か?などが、授業の一環として、時には実践も交えながら、教えていくことができたら、どんなに素晴らしいだろうと思うのだ。小さいうちから、目を輝かせて生き生きとする子どもが格段に増えると思う。

 

 フィンランドでは、子どもが10人いたら10通りの生き方がある、と考えて教育しているそうだ。教師の質も素晴らしく、親も、幼少期から子どもを一人の人間として接する、心がけをしているようだ。それぞれの個を尊重し、子どもの時から、「どうしたい?」「どう思う?」と尋ねることで、自分軸を育て、自己肯定感が増す取り組みをしているらしい。そんな教育現場とか見てみたい。それに関わる専門家の人達の声を聞いてみたいなと思うこともある。そんな教育が、日本にも浸透すれば、日本は物質的なことだけに留まらず、精神的にも豊かな国になれると思う。日本が世界一になる日だって、夢ではなくなるだろう。