カウンセリングで癒すべき感情と向き合っていた時、思いを吐き出し、涙が出てすっきりしたかと思えば、カウンセリングが終わるとまた過去の苦しい感情達が暴れだしたりして、心身共にとても疲れることを繰り返した。苦しくてたまらなかった時、ふと思い立って、父へ手紙を書いた。なぜか、母に対してではなく父だった。もちろん、投函することはない。手紙は爆弾になる。投函してしまえば新たな、そして余計な波乱を引き起こすだけである。当時、自分の心と向き合うことに精いっぱいだった私に、これ以上の問題事はとてもとても無理である。

 

 両親に対する、育ててくれた感謝の言葉から始めた手紙は、思うままに書いていくうちに、だんだん悲痛な叫びを訴える言葉達に変わっていった。その内容を載せる事は、さすがに躊躇われるので、ここでは控えるが(いつか勇気が出たら載せるかもしれない)書いていくうちに、頬に涙が幾筋も重なり、涙で書いている文章がぼやけてわからなくなりながら、無我夢中で書いた。きっと当人達に直接訴えられない悲痛な思いを、どうにかして吐き出したかったのだと思う。

 

 それを書くことで見えてきたことは、私が父に対して一番伝えたかった思いは、「私を助けてほしかった」だった。

 

 あの機能不全家族の中で、束縛と干渉が暴走する母を止めることが出来るのは、立場上、父だけだったからだ。しかし現実は違った。父は家では母の言いなりだった。そして、悲しいことに、父もまた母と同じくらい過保護・過干渉だった。時々、母親が二人いるのではないかと錯覚するほど…。大人になっても、家では二人とも、私や兄に対して、「幼稚園児扱い」が見え隠れした。

 

 父は、朝起きて台所に行くと、「おかずは、これとこれがあってー、味噌汁は温めてあるよ。こうして、ああしてー…食べると良い。」など、ひとつひとつ行動する前に、逐一先のことを言うのである。「子どもじゃないのに…」という、私は嫌気と諦めの境地だったが、心に余裕がない時は、その行為が無性に腹が立ってしょうがなかった。兄も言動には出さずとも内心、うんざりしたり、時に苛立っていた。

 

 おそらく、子に優しく何でも教える、ということが、父にとってはコミュニケーションのつもりであり、愛情だと思い込んでいたのだろう。それは母も同じだった。「何でも私に聞きなさい。何でも教えてあげる。親が一番知っているからね。」が、口癖だった。「可愛い子には旅をさせよ。」という格言があるが、我が家には全く持って無縁な言葉だった。子を尊重し、見守るということが全くできない(する気がない、という表現が近いかもしれない)のだった。

 

 父もまた機能不全家族の中で育った。父は三兄弟の次男として産まれたが、長男が幼少期に病気で亡くなり、長男のような役割を無意識に、親から強いられた。そして、母の環境とは違って、両親は二人とも無口だった。善良な父(私の祖父)と賢い母(私の祖母)ではあったが、お母さんは非常に女性としては無口で、その環境で育った父は、ネグレクトに近い状態だったのではないか、と感じている。食べ物、衣服、寝場所はきちんと与えられていたが、情緒的なやり取りがない会話のない家庭。子どもへの関心、声かけ、励ましや対話、母の笑顔がない家庭では、自己肯定感も育たなかったはずだ。長男としてしっかりした男になってほしいという、親からの暗黙の了解の元、父はその役割を身に着けた。そのことによって、父は小さい時から、自分の思いを、特に悲しみや怒り、混乱、戸惑い、弱音を吐く、などのネガティブな感情を出すことは、男としてみっともない、そんな弱気な自分は出してはならない、といった信念が刻み込まれたのだろうと思う。

 

 その現実もまた、とても悲しい子ども時代だった。ありのままの子どもとして生きられない、沢山の苦しみ・辛さが伺える。しかし、それが連鎖して、私もまた沢山の悲しみに裏打ちされた怒りが心に満タンだったので、私はちょっとしたことでも、怒りが生じやすかった。父は基本的に温厚だったが、怒りを出した時の私に対しては、いつも冷淡だった。「怒ったって何にもならない。そんなことで怒ることじゃない。たいしたことじゃない。」と、母と同じように私を切り捨てた。この怒りが、何十年も溜まった、私を認めてもらえないことによる、大きな感情達の蓄積だと知っていたなら、そのような言葉は出てこなかっただろう。その真実を知ることは、今までも、これからもないが…。

 

 また、父の目には、どう映っていたのか?今でも謎である。母娘の仲が良くて微笑ましかった?私を差し出しておけば、母は大人しくなるから助かる?私に何もかも頼りきりだったのではないか?本当の私は、悲鳴を上げ続けていたのに…。

 

 私が父へ書いた長い長い手紙の内容の中で、一番大きかった思いは、「母を止めてほしかった。母から私を守ってほしかった。」だった。子どもらしくいさせてもらいたかった。親の期待通りを演じる私ではなく、私のありのままを認めてほしかった。子を繋ぎとめる接着剤のような毒ではなく、健全な愛情が欲しかった、である。