自分を心の中で責めると、バネのようにその思いは、他者へも向かう。だから、どちらかをしている時は、私の場合、心の中ではほぼ同時に両方面にしているらしい。自分を責めることを辞めると決めても、昔の癖はちょこちょこ出てくる。でも、その都度気づいて手放していくしかない。
昨日の出来事を振り返ってみての教訓は、自分と他者は、上下関係ではなく対等であるという意識を持つこと。また、人と接する場面で、自分が困ったな~、嫌だな~と感じたら、「今、どういう感情を感じている?」「どうしたい?」と書いたメモを見ることにした。自分の感情、ニーズを自分の心に聞く習慣がないので、メモを見るということならできそうだと思った。
被害者意識は、機能不全家族で育った人にとって持たざるを得ない心のパターンだ。その環境を維持するには、自分を犠牲にするしかないから。でもおとなになり、その環境から離れ、ひとりの人間として自立して生きる時には、それは心を苦しめるだけになる。(全か無か思考や、コントロールもそうだ。背負ってきた役割ももう手放した方がよいもの。役割はもういらない)
私が、被害者意識を持っていることは、わかっていても、手放せないでいた本当の理由は、こんな過酷な環境で生きた私は本当にとてもかわいそうなんだ、という想いだった。誰かにわかってほしかったのかもしれない。
人と話していて、その人の家庭環境などを知ったり聞いたりすると、だいたいその人の乗り越えてきた難易度がわかる。幼い頃から、自己肯定感が高く育った人は、家庭内での葛藤や困難が少ない傾向にある。でも、人と比べ、不幸の背比べをしても意味がないのだと、はたと気づいた。重要なことは、それを乗り越え、私として輝いて生きることだからだ。
自分が、回復への道をたどり始めてから、今まで過去に出会ってきた人達を振り返ってみて、「あ~あの人も母娘共依存だったな」という人に何人も気づいた。その人達は、共依存であることにすら気づかずに毎日を送っていると思うと、胸が痛い。
今日も箸を左手に持って、食事をしてみた。昨日はできなかったけど、おぼつかない感じではあるものの、なんとか箸で味噌汁の具をつかんだり、ご飯を一口ずつ口に入れることができた。回復への道もこんな感じなのだなと実感した。昨日はできなかったことが、少しずつできるようになる。小さな変化を、自分を褒めながら、進歩を確認しながら進んでいこう。