歪な視界。
赤と紅と朱が、壁や壁や腕に斑点のように付いている。
いびつな視界。
まるで発疹のよう。
角膜に異常があるのだろうか。
いびつなしかい。
目を擦っても治る気配は無い。
痛い。痛い、目は擦るもんじゃない。
視界が歪なんじゃない。私が悪いんじゃない。
歪な世界。
世界が、いや、個々たるこの空間が、歪。
赤と紅と朱の液体が壁を染め上げ、私の腕、腕だけでなく体中に赤と紅と朱の液体が私を染め上げていた。
手には、冷たい冷たい鉄パイプ。
目の前には、赤い紅い朱い物体。
歪な空間は、時を刻むのを止めていた。






「おーい、結花」
口を半開きにし、どこを見ているのか分からない瞳をした友人を、現実に引き戻す。
呆けた表情。引き戻せていない。まだ別の国へトリップしているのか、と思うと本当に呆れる。
いや、トリップ自体に罪は無い。トリップしている本体に罪がある。
授業中、教師に指名されているのにトリップして反応を返さないのは明らかに罪だ。
教師は「またか」という表情をし、私にアイコンタクトで命令を下す。正直、とてもとても迷惑だ。静寂に包まれ、凍りついた空間で、友人を引き戻す為に声を出すだなんて下らないにも程がある。
まあ、私の席の位置が友人の隣であり、そして友人と一番仲良く接している人間であるから、仕方ないと言ったら仕方ないのだが。
…いや、全然仕方なくない。
だが授業中に教師に声を荒げて文句を言うわけにもいかず、私は渋々、友人の夢の国トリップを中止させるのであった。まったく面倒くさい。
「結花」
授業中なので強く言うわけにもいかず、耳元で囁くように、吐息を感じられる程度にまで近づいて友人の名を呼ぶ。
これでも反応しないようならば、その耳たぶを思い切り指で弾いてやる。考えるだけで痛々しい。
「ふえっ、なに、香奈ちゃん」
耳たぶバチン作戦は大いに中止せざるを得なくなったが、夢の国トリップから戻ってきただけ有り難く思っておこう。
口が半開きのアホらしい呆けた表情から一変、疑問を抱いた表情を私に向けてくる。こちらとしてはあなたの変な集中力に疑問を抱きたくなる。
私は教壇の方向を指差す。結花の顔が教壇の方向に向けられる。やって顔が向いたと分かると、怪訝そうな表情をした教師は咳払いを一つして、結花の名を呼んだ。
もはや怒る気にもならないようだ。教室は何事も無かったかのように、凍てついた雰囲気を醸し出しながら授業を進めていった。







「あー、すんごい恥ずかしい」
「香奈ちゃん、何かしたの?」
本当にごく自然に返答してくるのだから余計に質が悪い。
もはや自分が夢の国トリップしてた事すら忘れやがってるのだろう。
だが怒る気にはならない。いつもの事だから。
私は弁当箱から卵焼きを手に取り口に放り込んだ。
ああ、とんでもなく甘い。甘すぎる。塩気がある卵焼きを好む私にとって、この甘さは拷問だ。ギロチン。
「どう、どう?私の作ったお弁当は今日も美味しいですか?」
結花が期待の眼差しでこちらを見ながら弁当の感想を求める。
「作ってきてくれるのはホント有り難いんだけどさ、この卵」
「褒めてもらっちゃった…えへへ」
結花は顔を赤らめて微笑む。
言い終わる前にそんな愉悦に浸ってしまっては、甘い甘い卵焼きの文句がつけづらいじゃないか。天然ボケ策士め。
「ねえ香奈ちゃん、香奈ちゃんの武勇伝を教えてほしいなあ」
「武勇伝て…鉄パイプ持って暴れてた時?あんなん武勇伝でも何でも無いっての」
元ヤンキー、略して元ヤン、の部類に属していた時期はあった。タバコ吸ったり縄張り決めたり。
鉄パイプを片手に縄張りである街に繰り出し、路地裏で調子こいてる野郎共を殴り回っていた。
縄張りを侵されたから殴っていた、という理由は表向きである。
しかし、ジャンキー共を病院送りにして正義感溢れてたわけではない。殴り倒して悦楽に浸っていたわけでもない。
もっと根源的な何か。
そんな過去に自分が誇れる自慢話など存在しないわけで。
まあ、鉄パイプの扱いが変な方向に上手くなったくらい。
「香奈ちゃん、かっこいいもん」
天然ボケ策士は恐ろしい事を言い出す。鉄パイプ持った連続暴行犯に「かっこいい」なんて言葉。もしかしてジャックザリパーもかっこいいの部類に入るのだろうか。ジャックザリパーも吃驚仰天であろう。
でもさすがに婦人を狙った殺人鬼と一緒の部類にされては困るのだが。
「殺人鬼にでも恋したがる人種なのかね、あんた」
結花は微笑むだけで反論はしない。
「…え?なんか言った?」
またこれだ。一度放った言霊をもう一度放つ気にもならない。怒る気にもならない。
私は弁当箱を丁寧にくるみ、結花に渡して席を後にした。
「あぁ、待ってよ香奈ちゃん~」







窓からは橙色の光が差し込み、空は煉獄のように焼けていた。灼熱の円形は地平線へゆっくりと吸い込まれてゆく。
「香ー奈ちゃん、一緒にお買い物行きましょう!」
「はいはい香奈ちゃんは課題提出の為に奮闘中なんです」
シャープペンシルを紙に走らせ、黒い軌跡を残していく作業に私は追われていた。
そんなときにこの誘い。誘惑。どんなテンプテーションよりも欲望を刺激する悪魔の囁き。
結花が悪魔に見えて仕方がない。留年悪魔が目の前で買い物に行こうと駄々をこねているのだ。
「行こうよ香奈ちゃん、香奈ちゃん」
極力、無視を試みるが、どうしても聴覚は悪魔の囁きを脳へ受け取らせる機械的な感覚であった為、欲望は次第に膨らんでゆく。

留年悪魔は誘惑の甘言を止めることはしない。むしろそれは間をおかずに発せられる。壊れたレコード。
段々とシャープペンシルを走らす手に力が入らなくなる。そしてついには、シャープペンシルを全力で投げ捨てた。シャープペンシルは見事にゴミ箱を捉え、ボックスインして姿を消した。
「めんどい!さあ結花、行こうか!」
そう叫ぶと、結花は満面の笑みを浮かべて私の腕に抱きついた。
家に帰ってからやればよい。何も焦らなくても、明日までまだ14時間はあるのだ。と、無理矢理自分を納得させた。
しかし、腕に抱きついている天然ボケ留年悪魔をなんとかしてほしいのだが。動けないし何気に重いし。





街は賑やかだ。
右往左往する人の波は個々たる意志ではなく、一つの大きな意志さえも感じられる。
こんな人混みなのだから、殺人鬼や人食いという異端が紛れていても分からないであろう。
「で、買い物って何さ」
私が問うと、結花は恥ずかしそうに手を後ろに回したり口をもごもごさせている。
「買いたい物は、無いの。香奈ちゃんとおでかけしたかっただけ」
意を決したのか、結花は真剣な表情でカミングアウトした、というよりも話した。
私は別に留年悪魔に騙されて憤怒にまみれる気にはならなかった。逆に、少しだけ結花の仕草が可愛らしく見えてきたぐらいだった。
「仕方ないな」

そう言って私は結花の腕を引っ張る。

結花は困惑の表情でこちらを見つめる。そりゃ、何の前触れも無しに腕を掴まれるだなんて、卵アイスの暴発を真正面から受けてしまったくらい困ってしまう。てか驚く。

「どっ、ど、どっ、どこに?」

「ファミレス。もちろんここまで連れてきた結花の払いでね」

そうやって私は微笑んだ。怒っていないと分かると、結花は安堵したのか、少しだけ目に涙を浮かべて笑った。






ああ、ああ、ああ、あああああ。

ああああ、あああ、あああああああ、懐かしい。

あの時は、こんな赤と紅と朱になんか、目にも入れなかったんだろう。

あああああああああああああああああああああああ。

あのとき、こんなことになるとはおもってもいなかったんだろう。

あんなに平和だったんですもの。

あんなにへいぼんだったんだもの。

あんなにあんなに、ファミレスでも、教室でも、いろいろと。



ああ。


ああ。


手が赤い。


体も赤い。


目の前も物は紅い。


ああ。


ああ。


絶望。






つづく