お腹、が、減って、きました。
空腹、に、なり、ました。
胃、が、何か、を入れろ、と叫びます。
肉、肉、肉。
目の前に、目の前に目の前に目の前!
丁寧、にお膳立てされ、ているよ!白いテーブ、ルクロ、スが純白に映、え、てい、るよ!しか、も、まだ生きているよ!とても新、鮮!アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!










ぎちり










私は私の左手に食い付いた。鋭利な犬歯が、手の甲に食い込み、赤い赤い赤々とした液体が犬歯で穿った傷穴から、どろりどろりどろりと流れ出す。
鋭い痛みが手の甲から腕を伝わり、脳髄に響く。
「はあ、はあ、はあ」
息が荒くなる。
危うかった。あのままだと、啓司の首に私の歯が突き立たっていた。
恐ろしい。
考えるだけでも恐ろしい。
私の手で啓司を喰らう。
恐怖。
だが、ふと見た鏡に映った私の顔は、とても嬉しそうに歪んでいた。






「はい、朝御飯です」
空腹に堪えながら夜を越える事が出来、今は啓司にイチゴジャム食パンを届けているところだ。
今日も、卵を電子レンジでゆで卵にする事にチャレンジしたが、結果は数十秒後に恐ろしい爆発音と共に判明した。
届ける前に、イチゴジャム食パンを少しだけかじったが、空腹の足しになるような感覚はない。というよりも、味覚が無くなってきた。
数日前、いつだったか、啓司を殴った愚かで馬鹿で憎たらしい男の、肉の味が思い出される。あの味でないと、私は生きられない、肉でないと、私は生きられない、そう実感できるのだ。
「あれ、このパン欠けてるね」
バレた。
「す、すいません、少しかじってしまいました」
啓司は嫌がるだろうか、拒絶するだろうか、怒るだろうか、私に罵詈雑言を浴びせるだろうか、私を殴るだろうか、私を喰らうだろうか。
啓司に拒絶される恐怖、私が私で無くなりそうな恐怖。
啓司に拒絶される恐怖、私が私で無くなりそうな恐怖恐怖。
あの時、啓司に忘れられるという拒絶を受けた時の悲しみが、悲しみが今。
「お腹減ったのなら、僕も作ってあげるよ」
優しく微笑みかける啓司に、私の精神は安定した。
「動けないじゃないですか」
「ああ、脚が動かないんだっけ、自分の体の事なのに、忘れてたよ」

自分の事すら分からなくなってしまう、啓司の病気。
いつかは私も忘れられる可能性がある、啓司の病気。
忘れられるのは、嫌だ。
この私に向けてくれる微笑みも、いつかは変わるだろう。
………………少し、疲れた。







廊下を何気なく歩いていた。
本当に何気なく。
歩いていれば、空腹を忘れられている気がした。
だが、思いの外、私の身体の限界はすぐそこまで来ているようだ。
視界が回る、視界がぼやける、身体がフラフラする、左手の痛みが麻痺する、腹の鳴りは治まらない。
これが、死の淵……もう少し経てば私は私で無くなってしまうのだ。
死の直前を体験するのも悪くない、そう私に言い聞かせた。






すると、殺風景な部屋の一つから、音が聞こえた。
人が、いる。
空腹感を抑え、殺風景部屋の扉を開けた。
そこには、中年の女性らしき人影がひとつ。
「どなた、ですか」
そう問い掛けると、女性は吃驚した様子でこつりを振り向いた。
「ひっ、だ、誰ですか」
「質問に質問で返さないでください」
女性はとても痩せこけていた。拒食症というわけではない、ストレスからくるような痩せ方だった。
「私は…啓司の、母です」
弱々しく喋った女性は、啓司の母だという。
信じるか信じないか…いや、ここは信じておいても問題ない気がした。信じなくても、別に問題ない気がした。
啓司の母、は一冊のノートを大事そうに抱えている。古ぼけたノート。この時間が止まってしまっていた殺風景部屋で、忘れ去られていた日記。
おそらく、いや、自分の日記なのだから、取りに来ても、問題ない、ハズ。いや、問題なくはない、なんで今更日記なんかを取りにきたのだ。啓司の母なら啓司の母らしく啓司に顔を見せて、いや、啓司と一緒に暮らしたらいいのに。
「日記の為だけに?ここにきた?啓司の為ではなく?」
その時のワタシの双眸は、憤怒と憎悪に満ちていたに違いない。目の前で日記を抱えているケイジノハハが、ワタシから目を背けて怯えだしたんだから。
「啓司にとって、私は母親ではないの。忘れられて心を壊した私は、あの子の母親である資格…権利がない。あの子に会って、私は何も出来ずにおばさん呼ばわりされるのが、怖かった。…日記を取りに来たのは、私の苦悩が詰まったこの本を、啓司に見せたくなかったから…たとえ誰の日記すら分からなくても、自分の名前が人を苦しめているのは、気分が善くないものでしょう?」

ケイジノハハは淡々と話す。それはワタシに向けられたものではなく、殺風景部屋の止まっていたジカンに向けられた弁明のようなものだった。
その弁明を聞いていたワタシは、同情していた、だが、同情していなかった。
ニッキを大事そうに抱えたケイジノハハは、静かに、呟いた。
「啓司の病気の正体を、私は悟ったの、特別にあなたにも教えてあげるわ」
不気味な笑みを浮かべながら、ケイジノハハは言う。
「病気の、正体?」
「あれは病気なんかじゃない、あれはあの子とあの部屋が繋がっているから起こっていた事なのよ!あの部屋の本を失うとあの子の記憶も失う、そんな単純な事だったの!あの時何も分かっていなかった私は、あの部屋を掃除したわ!そう、結果は見て分かる通り!あの子の中に気軽に踏み込んだ、その罰がこれなのよ!ハ、はははははは」
ケイジノハハは狂ったように笑い出す。
私は納得していた、だが、納得していた。
ワタシが落とした腐っていたホンが、啓司がワタシを忘れるきっかけであったのだ。
「あ、あああああ、アアアアア」
「そう!あなたもなのね!忘れられてしまったのね!ああ可哀想に、ああ可哀相に!私と同じ悲しみを味わったのね!ああ可哀想可哀相可哀想可哀想!!」
「…黙れ、黙れだまれ、おまえと一緒にするな」
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
「だまれ」
ワタシがこいつにつかみかかると、こいつは今までの狂った笑いを止めて、恐怖に満ちた悲鳴をあげだした。
その悲鳴をあげる口を強引に押さえ、ワタシは言い聞かせるように話し出した。
「おまえとワタシの決定的な違いをおしえてあげる、ワタシはおまえみたいに弱者などではない、だから罰などどほざけるんだ。だから啓司を救えないんだ、ここから去ね、ここはもうワタシと啓司の家だ」
掴んでいた手を離してやると、弱者は逃げ出した。ニッキを大事そうに抱えながら。





「アリス、何かあったの?なんだか騒いでたようだけど」
心配そうに啓司が話しかけてくる。
「何でもないですよ、ちょっとネズミが這い回っていただけです」
そう言いながら、ワタシは啓司のカラダにフトンをかけ、る。
啓司はまだ心配そうだ。
「大丈夫です、今日一杯、ワタシが側についています」
そう言うと、啓司は安心したように眠りだした。





ワタシの限界は、近い。


きっと耐えられなくなる。


その時は。


ワタシは。


啓司を救う。


つづく