最近、やっと入院準備が出来ました。
ず~っと、やらないと!!と、思いながら出来なかった入院準備。
そうちゃんの時にお世話になった病院は、入院セットが充実していて手ぶらで入院できる病院でした。
(それが売りだったのかも…)
今回は、普通に準備が必要なので、ちょっと手間取りました
そして、退院してからのベビー服とかを洗濯しまくりました
男の子なら、そうちゃんのおさがりが。
女の子なら、姪っ子ちゃんのおさがりが。
そんなこんなで、そうちゃんの時よりも洗濯する量が多かったように感じます。
でも、おさがりっていいなって思います。
馴染んでいるし、思い出もあって・・・。
ただ、私の場合は、躊躇もありました。
そうちゃんのベビー服を出す!という行為が、なかなか出来なくて。
イザッ
出して、選別して、洗濯機に入れる瞬間・・・干す時、たたむ時に、思い出す記憶や感触や感情。
あ~っ、そうちゃん。
あ~っ、そうちゃん。って、そんな感じで
思い出すのが悲しいというのとは違って、聡太郎が使っていたものから思い出すことが、改めて聡太郎がいないっていう現実を突きつけられるようで痛い・・・そんな感覚。
と、書きながらも違うような、そんなような感じなのです。
そうちゃんに二度と逢えないことも、触れられないことも、それが死なんだということも、頭では分かっているんですよ。
イヤっていうほど・・・。
それでも、
「でも」とか「何で」とか感情の部分で受け入れてないような、受け入れがたいものがあるのも実際です。
きっと、そんなことの繰り返しなんだろうなって。
私が初めて妊娠の記事を書いたときに、あるコメントの一部に「まだ1年しか経ってないのに・・・」という言葉が綴られていることがありました。
でも、私は思うのですが、1年も2年も3年も、ついには10年20年と月日を繰り返して積み重ねていくことで癒えるのなら、どんなに楽だろうって。
「1年しか経ってないのに。」と書く人にとって、最愛なる人を亡くした時、いったい何年という月日を過ごしたら癒えると考えるのだろうか・・・と、不思議に感じました。
聡太郎が亡くなって1年10ヶ月。
もうすぐ2年です。
私は、笑うし、悲しむし、怒るし、そして生きています。
まだ2年かもしれません。
もう2年かもしれません。
この先、色あせる記憶や感情もあるのかもしれない。
本当に大切な瞬間や、忘れられない瞬間を思い出す感覚や時間は変化していくのかもしれない。
でも、絶対に忘れられない、痛みや感情もある。
この気持ちと上手く付き合いながら、感情の整理や感情のコントロールを学んで過ごしていくのではないのかと思っています。
先日、ある方にお会いしました。
その方も天使ママさんで大先輩なのですが、「子どもを亡くした親が、次に子どもを育てていく時に亡くなった子どもの年齢を次の子どもが超すまでは、本当に辛いっていうことは覚悟しておいた方がいいわよ。その年齢を超えた時に変わるから・・・。」とアドバイスを頂きました。
前後に話していた内容もあるのですが、私にはとても納得できるものでした。
なんだか・・・話が書き出したときとテンションも含めて変わってしまいました。
では、また~