7月10日参議院議員会館に行って来ました。
そこでの、2つ目のプレゼントは・・・。
ある方に出会えたことです。この方を「Tさん」とさせて頂きます。
聡太郎の移植を考えている時に、9月に行われた移植学会の市民公開講座。
そこでTさんは、質疑応答の際に手を上げて意見を述べられていた方でした。
この方の話を聞いたことが、私の脳死移植の考え方に大きな影響を与えました。
そのため、ずっとお会いして挨拶をしたいと願っていました。
そうしたら、7月10日の参議院議員会館での議員さん向けの勉強会でご一緒することに・・・。
感動しました。
ペットボトルのオマケの後でしたから、またまた、そうちゃんからのプレゼントと思いました!
Tさんの息子さんはアメリカで亡くなりました。
アメリカに行き、息子さんに再会し医師から宣告されたのは脳死でした。
その時に、「脳死は、脳死という人の死だから、残念ながら息子さんは戻ってこないです。」と宣告されたそうです。
その先に話し合いの場が設けられ、話し合った結果、息子さんは提供者となられたそうです。
そして、「死の宣告があったからこそ、提供者となれた。また、そうしたことに後悔はしていないし、先生には感謝している。」と述べられています。
私はTさんの話を聞いて、初めて「脳死は人の死であり、死の先にある最後の希望が移植」なのだと思いました。
その時に、はっきりと「死の先の最後の望みとして、移植は行われなければならない。」と感じたのでした。
しかし、日本の現行法では「脳死は臓器提供の時にだけ」とされていますから、脳死が人の死ではないのに移植の時にだけ「死」とされた方から臓器提供を受けるという日本の現状には抵抗が生まれました。
今も思っていることですが、移植の時にだけ「死」であるということは、理念的問題であっても、それ以外は「死」ではない。そのような状況では臓器提供をする方と受ける方には多大なる負担を背負わせているように思います。
きっと現行法は、提供をしない人・移植を希望しない人にとっては守られる精神面がありますが、提供を希望する人と移植を希望する人にとっては、大きな精神的負担がある。そのことが、現行法で国民に不安を与えている部分の根源でもあるように思います。
Tさんにお会いできて、本当に良かったです。