5月27日
晃士くんのお誕生日でした。
4歳だね。
叶わない願いだと知りながら、
晃士君に逢いたい。
逢いたかった・・・。
晃士君に感謝の気持ちを伝えたいです。
アメリカから帰国して、どうやって何をしていくことがいいのかな・・・。
と、悩んでいました。
自分の人生だけであれば、勝手にいくらでも納得して、進むことも停滞することもどんなことでも・・・決断は自分自身の責任として受け止めてきました。
でも、聡太郎に死が訪れた瞬間、聡太郎の死は日本の社会の問題でもあるんだと感じました。
私たち個人が勝手に納得して済む問題ではないという現実に思えました。
そのような中で、晃士君の記者会見の日を待っていました。
私は聡太郎を誰よりも近くで見守ってきました。
その時間は、聡太郎の病状や機嫌や日々の変化を感じさせ、受け止めさせてくれました。
言葉にできない変化の中で、血液データやレントゲンやエコーの結果に聡太郎を見るのではなく、聡太郎の変化の結果にそれらのデータが与えられているような感じでした・・・。
(そう想い感じられるのも、主治医の先生のご尽力のおかげなので、大変に感謝しております。)
なので、ある意味では誰よりも聡太郎の死を、受け止められる状況にあったようにも「今は」想います。
晃士君のとき、私は、救う会の発足と募金活動のニュースを待っていました。
そして、募金活動の記者会見が行われ、ニュースになるのを待っていた私に届いたのは、晃士君・・・の訃報でした。
あのショックは、本当にありませんでした。
私の待っていた結果に反して、予想だにしない方向にベクトルは付き抜け、本当に心を撃ち抜きました。
感情の振り幅が大きいほどに人はショックを受けるのだということ・・・。
そして、その感情は、日本で聡太郎の渡航を願い、移植手術を受けて元気になって帰って来てくれるとういうことを信じて待っていてくれた方の気持ちと同じなのではないかという気付きになりました。
それまで、聡太郎に逢ったことはないけれど、聡太郎の死が悲しくて悲しくて毎日泣いてしまうのです・・・というお手紙やお言葉に、親の私以上の悲しみを感じることもあり、驚きと申し訳なさを感じることもありました。
自分自身が晃士君に対して湧き出る感情を知った時、そのような方々の気持ちを知ることが出来ました。
あの日、絶対にこのままではいけない。変えないといけない。と決意出来ました。
こんなに、こんなに悲しくて痛くて、泣いても泣いても癒えない気持ちを続けさせたくないと本当に想いました。
もう二度と同じ思いはしたくない、絶対に嫌。耐えられない。と・・・。
だから、法案改正を訴えていられます。
晃士君、不思議だね。
一度も逢ったこともなくて、あの日は、晃士君の事を知ってから1カ月も経っていなかったと思うのに、なんでこんなにも感情が晃士君に向かったのか・・・。
丈一郎くん、聡太郎、彩ちゃん、さくちゃん、晃士くん。
こんなにもたくさんの子どもたちの命。
これまでの12年間に喪われてきた救えた命の尊さ。
晃士くん。
まだまだ涙がでます。
でもね、それでいいと思っています。
こんなにも人のために泣けるなんて、人生でそんなにないことだと思うから。
そして、それは・・・自分自身のためでもあるのだと感じます。
どんなに悔しくても、どんなに悲しくても、どんなに辛くても、晃士くんに出会えたことに感謝しています。
いつか、大きな喜びに変わるから、変えるから、待っていてね。
そして、それまでにも、丈一郎君と彩ちゃんとさくちゃんと、ご両親に出会えたことに感謝しています。
多くの皆様のおかげです。
ありがとうございます。