不意にのたうちまわることはあるんだけどね、
それでも立ち直ったりする。
そういう、底上げされてる感覚はある。
守られてるなあって思う。
当たり前って、不遜と同義だよね。
忘れそうになるから、
節目を備える(供える 具える)
それは知恵だったと覚えておきたい。
・ ・ ・
魂が集まっている。
それはわかる。
・ ・ ・
自分を大切にできないとして、
そのできないわけみたいなものもわかる。
自分のものって思ってるからだよね。
もしかしたら、自分のものでさえ
ないかも知れないじゃない?
たとえば、
神さまからの尊い預かりものだとしたら?
あらゆるルーツを汲んで、
あらゆる時間や縁に手塩にかけられて、
おおいなる流れの中で、
運ばれて、
生まれ、
そして育ってきた魂と身体、
ひとつの依り代。
これを今、この瞬間
どう受け止めて、
未来へ送り出すか。
どの縁に結びつけ、
どう花開かせてあげるか。
そう、子供のように。
そしたら、愛せるんじゃない。
この子をどうやって送り出すのが最善か、
どういう背中を見せるのが、
どうひざまづき、
どう手を取って引っ張るのか。
少なくとも、
そういう勇気と気概は湧いてくる。