■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」005 ■■ ジェームス・ブラウン自宅訪問記  | 吉岡正晴のソウル・サーチン

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■■「ソウル・サーチン・アーカイヴ・シリーズ」005 ■■ ジェームス・ブラウン自宅訪問記 (ジェームス・ブラウン・パート3)

 

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(本作・本文は約7000字。「黙読」ゆっくり1分500字、「速読」1分1000字換算すると、14分から7分。いわゆる「音読」(アナウンサー1分300字)だと23分くらいの至福のひと時です。お楽しみください)

 

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ドン勝本さん。

 

1972年頃から六本木のソウル・ディスコ「エンバシー」のマスターとして活躍し、その後、ジェームス・ブラウンに刺激を受けて「全国ディスコ協会」を設立した勝本謙次さん(愛称ドン勝本)とは、そのエンバシー以来の30年を超える付き合いとなった。その勝本さんが、ミスター・ブラウンが2006年12月25日に亡くなって半年もしない2007年4月19日がんのため57歳の若さで亡くなった。まさにHe follows him. 彼はミスター・ブラウンの後を追っていってしまった。彼が亡くなったときに、思い出話をブログに書いた。それがこれ。1996年1月、勝本さんと二人でミスター・ブラウンの故郷で行われる奥さんの葬儀に出向いたのだ。

 

 

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自宅訪問

2007年04月22日(日) 付けブログ

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031674956.html

 

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート1】

 

【Visiting Mr. Brown’s House (Part 1)】

 

速攻。

 

勝本さんとは、ジェームス・ブラウンが来ると必ずブラウンを追っかけて、あちこちに行った。東京はもちろんのこと、横浜、神戸などなど。だが、「勝本・ブラウン話」で僕にとって一番思い出深いのは、日本ではない。1996年1月、ジェームス・ブラウンの当時の奥さんだったエイドリアンさんが亡くなった時に、勝本さんと二人で葬儀に出席するためにはるばるオーガスタまで行った時のことだ。ミスター・ブラウン死去の時に書こうと思っていたが、この機会に記憶を整理して書いてみることにする。

 

奥さんが亡くなってすぐに勝本さんが「吉岡くん、一緒に行こう」と言って、有無を言わさずあっという間に航空券やホテルなどを手配した。たぶん、死去を知って翌日か2日後くらいにオーガスタ行きを決めていた、と思う。あの時、葬儀の日程などどうやって調べたんだろう。僕がダニー・レイかなんかに国際電話でもしたのかな。よく覚えていない。

 

成田→ロスアンジェルス→アトランタ→オーガスタ。けっこう時間がかかる。オーガスタと言えば、ゴルフのマスターズが有名だが、東京からは遠いのだ。

 

アトランタからオーガスタは、20人も乗れないようなすごく小さな飛行機だったと記憶する。オーガスタの飛行場はとても小さく、着陸した地点からメインビルまで普通に歩いた。LAには朝に着いたが、オーガスタに着いたのは時差がLAとは3時間あるので、夜遅くなっていた。夜11時近かった記憶だ。

 

そこからシェラトン・ホテルにチェックインするが、ここはミスター・ブラウンのオフィースのすぐ隣で、ブラウン関係者もよく打ちあわせなどで訪れる。(註:その後映画『ゲット・オン・アップ(邦題、ジェームス・ブラウン~最高の魂(ソウル)を持つ男)』の冒頭で出てくる事務所のすぐ隣にある) そして、メインのレストランの一角には、ジェームス・ブラウン専用の席があった。いつも彼はこのレストランに来ると、必ずここに座るという。他の人は座れないらしい。

 

メニューにはジェームス・ブラウンの大好物のサラダ(たぶん、シーザー・サラダみたいなものだったと思う)があった。メニューに「ジェームス・ブラウン・サラダ」と書いてあったかどうかは、ちょっとはっきりしない。メニューには「シーザー・サラダ」と書いてあり、通称が「ジェームス・ブラウン・サラダ」だったか、はっきりしない。その日は、ぐったり疲れたので、即就寝した。

 

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葬儀。

 

葬儀は到着した翌日に、市の公会堂のようなところで行われたが、ずっとダニー・レイが僕たちふたりの面倒を見てくれた。葬儀会場に行くのも、ダニーがホテルまで迎えに来てくれ、連れていってくれた。この会場には一般の人も入れた。ゴスペルのシンガーたちが何曲も歌ったり、ミスター・ブラウンをよく知る人のスピーチがされたりしていた。ミスター・ブラウンはずっと棺のそばに立っていた。僕たちも順に従って献花した。この模様は地元のテレビ局では生中継されていたと思う。

 

この会場で、ハリー・ワインガー(ジェームス・ブラウンのボックスセット『スタータイム』を作ったポリグラム・レコードのディレクター)とばったり会い、このためにわざわざ日本から来たというと彼はあきれたように驚いていた。(註、ハリーとはこれより前にニューヨークで会って知り合い、ニュージャージーのポリグラムの大きな倉庫に案内してくれていた。そこでたくさんのジェームス・ブラウンのマスターテープを見た。そのときの模様は、雑誌[レコードコレクター誌]に寄稿。また、僕が主宰している「ソウル・サーチン・ラウンジ」の2017年5月回にも登壇してくれた)

 

約1時間半だろうか、その儀式が終わると遺体の入ったカスケット(棺)が外の車に乗せられ、墓地に向かった。その車列は何十台も連なっていた。その連なり方が映画のよう(まるで『ゴッドファーザー』)で壮観だった。墓地につくと、また儀式があって、お祈りや歌があった。そして、牧師の声とともにその棺がゆっくりと地中に下ろされた。アメリカでは荼毘(だび)にふすということをしないらしい。

 

このあたりで、ボビー・バードや、マーヴァ・ホイットニー、マーサ・ハイ、フレッド・トーマスらJBズの面々に会った。みな、カラフルなスーツを着ていてドレスアップしている。

 

僕はアメリカでの葬儀というのに初めて出席したが、日本のように黒一色ではないのが自然らしい。お別れというより、神の元への旅立ち、セレブレーションだという認識のほうが強いからという説明を受けた。

 

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自宅。

 

その後、シェラトンに戻り、ミスター・ブラウンが関係者に食事を振舞った。70-100人くらいはいたのではないだろうか。広いレストランがブラウン関係者で埋め尽くされた。このレストランに戻ってきた頃にはブラウンもかなり元気になっていた。おそらく古い仲間と再会できたことがうれしかったのだろう。

 

ミスター・ブラウンは、まめにあちこちのテーブルに出向き、挨拶をしていた。そして、勝本さんと僕のところに来て、ブラウンが「今日はごたごたしてゆっくり話せない。明日、時間はあるのか。私のうちに来なさい」というようなことを言った。勝本さんは、その前年、一度ブラウンの自宅に招かれていたので、今度が二度目になるが、僕はまったくの初めて。恐れ多かった。

 

そして、その翌日、勝本さんと僕がミスター・ブラウンの自宅に招かれたのだ。ホテルに迎えに来てくれたのは、もちろんダニー・レイだった。

 

ホテルからミスター・ブラウンのうちまでは、約20分。シェラトンから広い国道か州道を走っていく。まもなく、大きな川(サヴァンナ川)があり、そこの大きな橋を渡ると、ジョージア州がサウス・キャロライナ州になった。川が州境だったのだ。サウス・キャロライナはこんなに近かったんだ、と思った。

 

「そうか、たったこれだけの距離でも、州境を越えたカーチェースをすれば、管轄は地元警察ではなく、FBI(連邦警察)になるんだ。きっとミスター・ブラウンは、この橋でも渡ったんじゃないだろうか」などと考えてしまった。(映画『ゲット・オン・アップ』での冒頭のカーチェースのシーンは、このサウス・キャロライナ州とジョージア州の州境をまたいでいた)

 

ほとんど対向車もなく、しばらく行くと、ダニーが横道に入っていった。横道といっても、狭くない。そして、ちょっとした一角に車を進めた。ちょうど、扉のない大きな門柱のようなものの横を通って中に入ったのだ。そこからジェームス・ブラウン邸の敷地内にはいったのだ。

 

(この項続く)

 

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)

ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25 (73)

 

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豪邸

2007年04月24日(火) 付けブログ

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031674721.html

 

【勝本さんとミスター・ブラウンの思い出~パート2】

 

【Remembering Mr. Katsumoto: Visiting Mr. James Brown’s House Part 2】

 

(勝本氏と僕は、ミスター・ブラウンの奥さんの葬儀に出席するために1996年1月オーガスタに旅立った。そこでわれわれを迎えてくれたのはダニー・レイ、そして、ミスター・ブラウンだった)(2007年4月22日付日記の続き)

 

 

豪邸。

 

門は特別閉まっていたわけでもなく、すんなり、中に入った。するとすぐに道の横に立て看板が見えた。よく道路などにある標識だ。そこには、こう書かれていた。James Brown Boulevard(ジェームス・ブラウン大通り)。 それを見た瞬間は度肝を抜かれたが、後になってオーガスタにジェームス・ブラウン・ブルヴァードができたと聞いて納得した。

 

ゆるやかなカーヴになり若干坂を下がる感じで車が進むと右手に小さな池が見えた。そしてさらに進むと大きな母屋(おもや)があり、その左側に車庫が見えた。そこには、たくさんの高級車が止まっていた。正確には覚えていないが、ロールス・ロイス、何台かのメルセデス、ジャグワーもあったような気がする。楽に10台以上あっただろう。

 

僕はダニー・レイに尋ねた。「あれ、今日はパーティーでもやってるの?」 勝本さんや僕が呼ばれたのは、パーティーでもやってて、それで呼ばれたのかと思ったのだ。ダニーは答えた。「ノー、ノー、あれはみんなミスター・ブラウンの車だ」 「ひえ~~、まじで」 ダニーが続けた。「ミスター・ブラウンはとても気前がいいんだ。たくさん車を持っているので、スタッフなどにも時々、車をあげてしまうんだよ」

 

ダニーは勝手知ったる家と言う感じで、母屋の前に車を止めると、われわれを家のほうに案内した。玄関のようなところでしばらく待っていると、お手伝いさんのような人がでてきて、居間に通された。

 

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ヘアメイク。

 

そこにはミスター・ブラウンが大きな椅子に座ってヘアメイクの人に、髪の毛をいろいろやってもらっていた。

 

「おお、ようこそ、座ってくれ。何を飲む? 何でも言ってくれ」と聞かれた。勝本さんと目を合わせ、何にしようか迷っているとミスター・ブラウンに言われた。

 

「コーヒー、オア、コーク?(コーヒーかコーラか?)」 なんで、コーヒーかコーラなんだろう、と思いつつも、コーラと答えた。ミスター・ブラウンから飲み物を訊かれるのはこのときだけではなく、それがわりといつも「コーヒー・オア・コーク?」なので、おもしろいなあ、と思っている。「ティー」ではないのだ。ひょっとすると、「氷もいるか」と聞かれたかもしれないが、記憶は定かではない。

 

しばらくして、お手伝いさんがコーラを二人分持ってきた。乾杯したか、ありがとうと言ったのか、いずれにせよ、僕も勝本さんもそのコーラに口をつけた。僕はかなり興奮していて、どんな話をしたかよく覚えていない。たぶん、時候の挨拶でもして、昨日の葬儀はお疲れ様といったような話を少ししたのだと思う。ミスター・ブラウンは、奥さんの死について、医学的な説明を少ししてくれたような記憶があるが、さすがに医学用語の単語はわからなかった。(註、テープ、カメラなどないのだが、今だったら、アイフォンできっと録音したか、撮影しただろう)

 

それからちょっとビジネスっぽい話になった。確か、その頃、ミスター・ブラウンは娘のヤンマ・ブラウン(註、1972年頃生まれ。1999年8月に結婚。医学部を卒業し、医師になった)を売り出そうとしていた。ミスター・ブラウンは僕と勝本さんの両方の目を交互に見て話す。目線があっているときは、やはり緊張する。これはいつものことだ。

 

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売り込み。

 

はっきりは覚えていないのだが、ヤンマ・ブラウンは自分の娘で今売り出そうとしている、CDシングルかなにかがあって、アルバムを作る(あるいはすでにアルバムはできていたかも)、それをアメリカでは自分のレーベルから出すが、日本でリリースしてくれるところを探してくれ、といった話だったと思う。とりあえず、CDを受け取って、聞いて日本のレコード会社に聞いてみるといった感じだった。

 

そのとき、ミスター・ブラウンは、勝本さんに向かって「君のためなら、なんでもするから、何でも言ってくれ」と言った。これは、ヤンマのリリースのためなら何でも協力する、という意味と、文字通り、勝本さんが必要なことがあればなんでも力になる、ということを意味していた。(註、ちなみに、ヤンマ Yanmaは日本語の山から取っている。日本やオリエンタルに親しみを感じているのだ)

 

「俺たちは知り合って何年だ? 20年以上だな。初めて日本に行った時にとった写真を飾ってるんだ」 以後、この話は彼が日本に来て会った時など幾度となく繰り返された。(笑) まさに話題のループ状態だ。そして、ミスター・ブラウンは「お前は俺の日本の息子のようなものだ」とも言う。

 

ミスター・ブラウンは、ファミリー、親しい者、仲間をひじょうに大切にする。仲間のために最大級の気遣いと施しをする。もっともヤンマ・ブラウンのレコードに関しては、日本に帰って聞いたところ、日本のレコード会社でのリリースはむずかしく、立ち消えになった。その後、ヤンマはドクター(医師)になったのは、ファンの方ならご存知かもしれない。

 

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釣り。

 

僕はミスター・ブラウンに行きがけに見た敷地内の池について尋ねた。「ミスター・ブラウン、あなたは釣りがお好きなのですか」 「いやあ、釣りをする暇はほとんどないんだ。今は、池にどんどん鱒(マス=だったと思う)を放ってるところだな」 釣るんじゃなくて、池にどんどん放し飼いにするんだ、と思って、またまた度肝を抜かれた。

 

ブラウン邸には小一時間いたのだろうか。外までミスター・ブラウンは見送ってくれた。そして再び、ダニー・レイの車に乗って僕たちはホテルに戻った。ダニーは、僕たちが邸内にいる間は、車で待っていてくれた。そのとき、僕はブラウン邸の全貌を見たわけではないが、ダニー・レイがその敷地がものすごく広く、かなり大きな豪邸だと教えてくれた。

 

ブラウンが昨年(2006年)亡くなり、その遺体が敷地内に埋葬されるかもしれない、というニュースを見たとき、なるほど、あれだけ広い敷地だったら、どこにでもお墓は作れると思ったものだ。

 

(この項続く)

 

 

ENT>OBITUARY>Katsumoto, Kenji/1949.5.20 - 2007.4.19 (57)

ENT>OBITUARY>Brown, James/1933.5.3 - 2006.12.25(73)

 

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供養

2007年04月21日(土)

https://ameblo.jp/soulsearchin/entry-10031675046.html

 

【ファンク・マスターズのライヴを勝本氏とミスター・ブラウンに見せる】

 

【Showing Funk Masters Live To Don Katsumoto & James Brown】

 

供養。

 

前日(4月19日)の勝本氏死去の衝撃からまださめやらず、それ以前からライヴ鑑賞予定だったファンク・マスターズに行った。彼らは1960年代後期から1970年代初期にかけて、ジェームス・ブラウンのバックバンドのメンバーだったクライド、ジャボが始めたファンク・バンド。そこに同じくブラウンのバックバンドだったJBズのリーダー、フレッド・ウェスリーをいれた編成になった。(註、ジョン・ジャボ・スタークス=1938年10月26日~2018年5月1日、79歳、クライド・スタブルフィールド=1943年4月18日~2017年2月18日、73歳)

 

セットリストは、主として彼らの最新作『カム・ゲット・サム・ディス』からのものとジェームス・ブラウンのヒット、JBズのヒット。

 

同行ソウルメートであるハセヤンが昼間電話してきて、「勝本さんとジェームス・ブラウンが一緒に映ってる写真とかないの? それ持ってきなよ」と言う。そこで、古い写真ファイルをひっぱりだして、いろいろ探したところ、1995年4月に撮影した写真がでてきた。ミスター・ブラウンと勝本さんとその横に僕が3人で映っている写真だ。二人ともいい表情をしていたので、近くの写真屋さんに行って僕の部分をトリミングして、ツーショットの写真をA4サイズに引き伸ばし、簡単な額装を施した。

 

ちょっとばかり恥ずかしかったが、テーブルの上にミスター・ブラウン&勝本氏のその額をステージに向けて置いた。ジェームス・ブラウンの曲、JBズの曲、たっぷり聴いてください、勝本さん、そして、ミスター・ブラウン、ご一緒に。

 

ライヴのほうは、年齢が行ってるだけあってか、かなりゆるいが。(笑) やはり、ミスター・ブラウンのバンドマスターとしての統率力みたいなものを改めて感じさせられた。あたかも、両親が外出している間に子供たちが留守の家で好き勝手にやっている、といった感じだ。

 

ハセヤンがライヴが終わった後言った。「俺たち(ハセヤンと僕)が高校生の頃から通っていたディスコ(六本木のエンバシー)のマスターだった勝本さんがいて、勝本さんが大好きだったジェームス・ブラウンがいた。もちろん、俺たちもJB大好きだった。勝本さんとJBはマブダチになった。それでジェームス・ブラウンが去年逝ってしまって、その後を追うように勝本さんも逝った。しかも、ちょうどフレッド・ウェスリーやこのクライドたちが来てる週に亡くなってしまうっていうのも、何かの縁だよ。だから、これは俺たちの自己満足かもしれないけど、ジェームス・ブラウンと勝本さんが一緒に映ってる写真を持って、彼らふたりにこのJBズの演奏を聴かせるってことで、俺たち二人の勝本さんに対する供養みたいなものができると思うんだ。さっき、昼間、電話して、まさか吉岡がこんなに額装までしてくると思わなかった。俺は病院には行けなかったけど、みなそれぞれのやり方で供養できるんだと思う。これでね、これを一緒にやったことで、別の意味で俺たちの30年以上の絆っていうのも、より強くなったと思うよ」

 

僕はうなずくしかなかった。ハセヤンが最後に勝本氏を見たのは、昨年のジェームス・ブラウンのライヴ・ステージでのことだったという。

 

ライヴ中、ハセヤンがこの額持って二人で写真を撮ろうと言い出した。ライヴ終わってからにしようよ、と言ったが撮ろう撮ろうというので、結局写真を撮っていたら、案の定、お店の人がやってきて止められた。(笑) 

 

勝本&ブラウンの写真は、後でダンステリア(勝本氏の店)や三宿のソウルナッツ(マイケル鶴岡氏がいる店)にも持って行こうと思う。

 

■過去関連記事

 

クライド・スタッブルフィールドが別のトリオで来日

August 02, 2006

Masters Of Groove Live

http://www.soulsearchin.com/soul-diary/archive/200608/2006_08_02.html

 

■Funk Masters 最新CD

Come Get Summa This

http://cdbaby.com/cd/funkmasters2

 

■Setlist : Funk Masters featuring JAB’O STARKS, CLYDE STUBBLEFIELD & FRED WESLEY @ Cotton Club, April 20, 2007

セットリスト : ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー

(transcribed by yoshioka.masaharu)

 

show started 21:34

01. Intro - Pass The Peas

02. Cold Sweat

03. House Party (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

04. I Feel Good

05. Papa’s Got A Brand New Bag

06. Never Make Your Move Too Soon  (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

07. Mustang Sally (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

08. Breakin’ Bread

09. Come Get Summa This (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

Enc1. Let’s Stay Together (From Funkmasters’ CD "Come Get Summa This")

Enc2. Doing It To Death

show ended 22:53

 

(2007年4月20日金曜、丸の内コットンクラブ=ファンクマスターズ・フィーチャリング・ジャボ・スタークス、クライド・スタブルフィールド、フレッド・ウェスリー・ライヴ)

 

ENT>MUSIC>LIVE>Funk Masters Featuring Jabo Starks, Clyde Stubblefield, Fred Wesley

2007-50

 

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