大浦峰朗 遺作展
2009年4月22日(水)~26日(日)9:00~17:00(最終日15:00)
三重県総合文化センター第1ギャラリー主催/大浦峰郎遺作展実行委員会
三重県津市南丸ノ内14123F Tel-090・5637・3435
大浦峰朗先生
もう‥こんな人は世の中には、いないのじゃないかな‥
今日、画家、岡林まちこさんに日記を見て連絡をとり
奥さんの大浦順子さんにパンフレットを届けて頂きました。
昔‥1992年ぐらいかな‥僕にとっては絵の先生じゃなく気功の先生。
絵も気功の事も、わからない僕がまだ20歳の時、音楽活動中
車の交通事故に合い体調を壊し、挫折してる時に出会った先生。
よくアトリエで、僕の体の調子が崩れると、すぐに気功で治療してくれました。
夜中でも行けばニコニコと笑い「何も言わなくていいよ‥うんうん‥」
「じゃあ‥ここに来て(ニコニコ)」と体を調整したり話を聞いてくれたり‥
音楽や絵や自然や環境や宇宙や宗教や人間の楽な生き方。
大浦先生は、夜中までわかりやすく話してくれた。
そのアトリエの中で、また誰かが困って先生を尋ねてくると
先生はその人にやさしい声で「どうしたの?」とニコニコして
近くまで行って抱きしめたりしていた。
そのアトリエでは、ブライアン・イーノのミュージックフォーエアポーツが
静かに流れていた。
僕がまだイーノの事を知らない時でした。
そして‥
心や体の状態もすぐに先生にはバレる‥(^^;
「大岡くん‥ちゃんと噛んで食べないと‥僕のお腹まで痛くなるよ‥(^-^)」
何で解かるのですか???
「普通にしてたら、何でもわかるよ。特別な能力なんて無いよ。」と‥
気功では同調といいまして、人の体や心の状態が、ある程度、解かるのである。
禅の世界や東洋思想やヨガ、風水の原理など
学校の授業、6年分以上学んだ気がします。
普通‥
普通てなんだろう‥
今、僕は普通なのかな。
いや‥普通でいられるのは、ほんまに無理や。
よくこんな話もした。
「もし‥いつか世界が滅亡するなら‥
その時の自分が、なんとかしてくれるよ。
だから安心してしっかり楽しく毎日生きなさい。
昨日も明日も無い。ずっと今しか来ないからね」(^-^)
「もし、自分にすごい敵が現れたら‥
必ずそれに対するあなたの味方が現れるの。だから大丈夫ですよ」(^-^)
先生から学んだ事は、たくさんあるが
もう先生も居ないし彼のアトリエもない。
頼るところも何もない‥
でも自分で生きて行くことしかないのだ。
そして学んだ事を、また誰かに伝えなきゃね。
それから僕は自分で勉強し治療家を目指した。
僕の家にも大浦先生に頂いた絵があります。
その絵も展示することになってます。
大浦峰朗先生を知らない方。
是非、先生の美しく細かく繊細なバイブレーションを
その絵から感じて見てはいかがですか。
大岡英介
「なにものでもなかったとき」への回帰
彼の訃報に接したのは、亡くなって1ヶ月を経ていたのでよけい信じ難かった。30年来
の知己であり、思い出も多いが、とりわけ私の銀座での個展に左右ちがった靴で現れたの
には驚いた。そんな日常のひょうきんな言動とは裏腹に作品はシリアスで、独立展を舞台
に重苦しい内面を吐露しつづけた‥
画家 八島正明
「幼年期からの母親との確執が必然的にこの画家の生涯のテーマになったようだ。以来、胎児は成長して成人女性になるが、やはり胎児は胎内にいて抜け出そうもがくものの、どの作品にも出口がなく、中には諦観したのか、のびやかに泳ぐ絵すら登場する。フォルムは単純明快で緊張感がみなぎり、現代の閉塞状態をも照射し年々脂がのってくる‥だが一昨年の東京個展作の生気をなくした黒い人体が死を予感させる‥」
画家 八島正明
彼は創り出すことが好きでした。そして育てるとうことも。
不器用な人でした。でも、出来ないことは出来るまで、やり続
けました。たぶん遺作展などやめてくれと、彼は言っている
と思います。でも、生前お世話になった方々に、ありがとうご
ざいますと言う機会にしたいと思い、開催させていただきます。
彼が怒って出できたら、それはそれで、いいかもと・・.
開催するにあたり、ご尽力いただいた方々、本当にありがと
うございます。
画家 大浦順子
題名不詳 1989年 S100号
「まんまどぐらの肖像」 1973年 F100
1949年 生まれる
三重大学教育学部美術科に8年間在籍。
1992年国民文化祭美術部門企画委員に委託される
1993年三重アート展運営委員
1994年国民文化祭美術部門一次審査審査員
1995年三重県洋画協会設立にかかわり、
同協会の事務局長の任にあたる
1991年~2007年ギャラリーマモン企画プロデュース。
受賞歴
1972年三重県展奨励賞
1979年三重県展奨励賞
1979年津市展教育委員会長賞
1980年三重県展教育委員長賞
1980年津市展市長賞
1981年津市展市長賞
1991年三重県展市長会長賞
4993年津市文化奨励賞
1996年中部独立展坂角奨励賞
2004年独立展賞候補
グループ展73~'97グループまんまどくから(三重県文化会館以下県文)、'74~'07A
独立展(東京都美術館)、74~'98中部独立展(愛知県美術館)、75独立
選抜展(東京都美術館)、V81芸文協具象の現状展(県文)、芸文協展(県文)、
'836人による絵画展(県文)、186芦屋市展(芦屋)、186ジャパンエンパ展、
19伊藤兼記念賞展、'89京展(京都)、T89U97東海独立展(浜松、静岡美
術館)、'90~196三重独立展(三重県総合文化センターギャラリー以
下県総文)、T90カカ展(福井県立美術館)、'9OU97独起会展(東京銀座
スルガ台画廊)、'91~'07テーマ展(ギャラリーマモン)、『912人展(ギ
ャラリーかねこ)、『93~36中部独立13人展(名古屋ギャラリー141)、
'93・'94夫婦展(ギャラリーマモン)、'94~'97中部独歩会展(名古屋丸栄)、
『95三重県洋画協会展(県総文)、'95三重の作家たち展(県総文)、795三
重アート展(県総文)、'96坂角奨励賞受賞作家展(名古屋ギャラリー坂
角)、『98独起会VS四奇展(ギャラリー坂角)
個展'72中部電力サービスセンター(四日市)、77~T91三重画廊(津)10回、
『81サンパーク画廊(松阪)、T81望月画廊(東京銀座)、'83~'07銀座スル
ガ台画廊(東京銀座)12回、'85~'94ごてんば書庖ギャラリー(津)5回、
T87~33アイヴィ画廊(松阪)3田元191ギャラリー奏(津)、291~『07ギャ
ラリーマモン(津)18回、'93ギャラリー満寿巳、'94ギャラリ)141(名
古屋)、'94・197ギャラリー彩園(四日市)、'98ギャラリーヤマダヤ(伊勢)、
'99ギャラリ可スミ(名古屋)、他アトリエ内個展
独立美術協会会友
2007年8月9日10時42分逝去享年58才
通去にも経験したことや、これから経験するだろうことも、
終わってしまえば、自分の内に単なる記接として残るにすぎ
なわし、それら娘、もしかすると錯覚なのかもvしれないと考え
たりもする。(1976年9月)
私にとって、それらはすべて錯覚で、あるかもしれない主、思
うこともある。…自分が生きていること、世界が存在すること、
しかし、実感とじてと伝ネていることだ、から、たとえ錯
掌であっても、自分でき受けるりもりでいる。(2000年9月)
大浦峰郎
パンフに書いてある八島先生の言葉にもありますが
昔、僕にも話してくれました。それは先生の母とのトラウマ。
僕等には、正しい事、許すことなど‥聖者のように解放に導く反面
先生は、母親に対してはそうではなかった。
先生は最後まで胎内の中に閉じ込められた状態だった気がします。
だから光のある場所や出口の探し方をとても詳しく話せるのです。
僕等は光を見つけ、出口まで教えて頂き
そして解放され、それぞれの道を歩み始めたけれど
先生は、胎内の中から出ずに迷った魂を救う為に残った。
そしてやがて胎内の中で亡くなったんです。
彼は最後に光の下まで来たのですが
何故か出ようとしなかった気がします。
本当の豊かさや暖かさを味合うことを拒否したようでした。
しかし、今でも暗闇に彷徨う魂たちを導くガイドをしながら
絵をニコニコと書いてあちらでも活躍してる気がしますね。
僕は‥ この10年の間、何人かの大切な人を失った。
しかし‥またその分、素敵な出会いが訪れる。
先生なら、そう言う気がします。
ありがとう 大浦先生
ちなみに‥
大浦先生に名前の由来は、大 浦 峰 朗 (おおうら みねろう)
おじいさんが修験道の方で、奥吉野の天河神社のある女人禁制の「大 峰 山」の事だと
昔、教えて頂きました。