徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』
(新潮文庫2009年、初版2007年)を読みました。
http://archive.mag2.com/0001629257/20140310173742000.html

太平洋戦争開戦をイギリスの側からみるとどうだったのか。
この本の主題はこの一点に集約できます。

素材は近年になって公開された
イギリス外交の機密文書。


英国機密ファイルの昭和天皇

英国機密ファイルの昭和天皇


近年ではルーズベルトによる陰謀説や、
ソビエト工作説などまで登場して

いろいろなことが言われていますが、
イギリスというカードを
一枚加えると話はまた変わってきます。

そして、昭和天皇と秩父宮を加えると
役者が勢揃いです。 幕末・明治以降、イギリスと日本の関係には
深いものがありました。

倒幕に当たって
薩摩を支援していたのはイギリスで、

日英同盟(1902-23年)の間には
日露戦争と第一次世界大戦がある。

そんな両国関係を維持したいのは、
明治維新以来の日本の支配層でした。

皇太子時代の訪英で大歓待を受けた昭和天皇も、
オックスフォードに留学した秩父宮も、大の親英家で、
財界や官界の大物にもイギリスびいきは多い。

ようするに吉田茂のような
人物は大勢いたわけです。 それが同盟解消から
二十年を経ずに戦争となりました。

「なぜ?」ということになります。

この本の著者の理解では、
日本国内的には
ドイツと結ぼうとする新興勢力がおり、

イギリス国内的には日本など
重視するに値しないという流れが生じる。

さらに、日英同盟を
脅威と感じるアメリカの存在もありました。

太平洋地域でアメリカが
日本と戦争することになれば、

日本と同盟を結んでいるイギリスとも
戦争をせざるをえないからです。

時は流れ、日英の絆も
だんだんほどけていきます。 満州事変があり、
やがて日中戦争が始まると、

日本は中国国内に侵攻することで
長年の友邦であったイギリスの
利権を侵すようになる。

イギリス国内の対日感情が
決定的に悪化してしまう。

日頃イギリス人と
仲良くしている日本の権力者たちは
「軍部」を本当に統御できているのか。

実際には一致団結して
イギリスに敵対しようとしているのではないか。 興味をそそるのは、
歴代の駐日イギリス大使が日英関係を修復しようと
必死の努力をすることです。

ただし本国の反応は冷淡。
しかも、日増しに冷たくなっていく。

これは西洋の国とつきあう
アジア人長年の宿命でもありますが、

多くの場合西洋の人々は
遠く離れたアジアの問題に興味をいだかない。

日本と中国の区別すらさだかではない人たちに、
「日本との関係を大切にしろ」と訴えたところで、
大した説得力はない。

はるかに大事なのはヨーロッパの問題で、
大西洋の向こうの兄弟国なのですね。 首相がチェンバレンから
対独徹底抗戦のチャーチルに代ると、

是が非でもアメリカを参戦させることで
対独戦を好転させようという政策に集中いたします。

日本の戦力など
たいしたことはないと思っていたイギリスの判断は、
この国にとっては壊滅的な結果となりました。 面白いのは、水面下で行われる
いろいろな工作が成功することもあれば、
しないこともあることでしょう。

当たり前といえば当たり前ですが、
歴史を考える上では、
当たり前なことが一番重要なのですね。 イギリスの外務省と諜報機関が連携して
秩父宮をイギリスに留学させることに成功しました。

他にもいろいろ手を使って
皇族や有力者層をを親英化しようと工作し、
かなりの成功を収めてきました。

しかし、その後のイギリス外交が
日本の親英人脈を利用できたのかといえばそうではない。

歴代駐日大使をはじめ日本の親英人脈の構築に
生涯をかけてきたイギリス人たちは切られてしまう。 ところが、戦後になって、GHQが皇太子の家庭教師に
アメリカ人女性(ヴァイニング夫人)を付けたことに
激しい衝撃を受け、

慌てふためいて
イギリス人に取り替える工作を
かなりしつこくつづけるのですがうまくいかない。

そもそも対等の同盟国だったつもりのアメリカが、
イギリスをまともに遇しなくなっていく。

明治以来イギリス式で整備されてきた日本の政府機構が、
何の相談もなくアメリカ式に改革され、そのたびに怒り心頭。

機密文書にはアメリカ人に対する
中傷や侮辱の言葉が踊るのですが、
ようするに陰で悪口を言うことしかできない。 いろいろな武勇伝に輝く伝統のイギリス諜報機関ですら、
実際には現場と本国の妥協で
場当たり的に推移してきただけなのですね。

もちろんこれも当たり前のことですが。 2014年3月10日 犬飼裕一


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英国機密ファイルの昭和天皇

内容紹介

ヒロヒトの全てを報告せよ----。

インテリジェンス先進国の英国は、かつて七つの海を支配した情報網を駆使
し、敵対関係となった太平洋戦争前後も、わが国を冷徹に見つめ続けていた。と
りわけそのターゲットとなったのは、日本のトップ、"天皇裕仁"だった。

退位計画、カトリック改宗説、皇室の資産隠匿疑惑。
そして、天皇の"名代"として動いた、吉田茂、白洲次郎の暗躍まで。

何から何まで、英国に筒抜けだったのだ。
ロンドンの公文書館に眠っていた、知られざる昭和天皇の真相!

レビュー


1963年生まれの元ロイター特派員の徳本氏の戦前戦後の日英外交文書の調査(英公文書館等)と、その当時の外交上の登場人物の動向を元にして昭和を紐解く。

自分の読み込みが足りないのかもしれないが、多くの外交文書は公開時期が決まっているので(機密度により公開の日時が規定される、佐藤優氏の最近の著作にあるような、橋本―エリティン川奈会談の内容のように)、

本書の機密度がどの程度かは分からないが、英国政府の日本に対する昭和と言う文脈での評価、あるいは想い入れは感じ取れる。

そして、その文章が示すように、結局はその文章を作り上げた個人あるいは組織の感情抜きには歴史は動かないということであ る。

登場人物としては、昭和天皇、天皇の弟 秩父宮、戦前の駐英大使そして占領期の首相であった吉田茂、吉田の右腕としてGHQと対峙した白洲次郎、

駐日英国大使クレーギー(1937-1942東京)秩父宮 1925年7月7日英国着 オックスフォード留学 1937ジョージ6世戴冠式出席 白洲  1919-1929 英国 ケンブリッジ
英国のロイヤルファミリーと日本皇室との繋がりの深さも、種々の文書や実際の交際の中で見えてくる。

チャーチル 1943、9月19日 イーデン外務大臣に送ったメモ
「日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。

大英帝国にとって、これに勝る幸運は滅多になく、真の敵と味方が明白となった。
日本が無慈悲に破壊される事で、英語圏と世界に大きな恩恵を与える」

また外交と言う文脈では、ハルノートにより開戦不可避であると外交上での解決に失望したとされる当時の外務大臣東郷茂徳の孫である東郷和彦(元欧亜局長 近著 北方領土交渉秘録 新潮社 2007)がやはり北方領土交渉で大きな失望を味わったのも歴史の事実なのである。

第2部では戦後編として、
皇室危機、天皇改宗、退位計画、
皇太子攻略(家庭教師派遣問題など)が綴られている。

また白洲のあまり語られない
商売上の軋轢なども書かれている。

いくつかの書が主要参考文献として
最後に挙げられているが、

立花隆氏の「天皇と東大」が
挙げられていないのはなぜなのだろうか?
と思った。

戦前戦後の皇室とそれを取り巻く
アカデミックと軍部の関係等が
かなり詳しく書かれていたと思うのだが。





白洲次郎の嘘 
日本の属国化を背負った「売国者ジョン」

著者のアプローチは二次資料の徹底的な読み込みです。

二次資料は著者独自のユニークな視角からもう一度、
それが語るもの、語らないものを含めて再吟味されていきます。

著者の狙いは自分のオリジナルなテーゼの証明にあるので、
証明に資するものは徹底的に利用され、
そうでないものは無視されることになります。

無視されたものをつかむ取ることは一般の読者には不可能です。
さていったい何が本書では「証明」されたのでしょうか。

英国での留学生活中での日本人との接触の記録がない。
白洲の自身の係累との限られた関係。

占領時代の彼の役割への過大な評価。
信じられないほどの収入と明らかではないその出所。

繰り返される不思議なジョブ・ホッピングと数々の洋行。
こういったところでしょうか。

白洲正子との不思議な夫婦関係。

出生の「秘密」の解き明かしや白洲次郎の容貌の秘密の解明は、
小話としては、推理小説張りに魅惑的なものですが、
つまるところは証明不可能です。

描かれるのは、明治以来日本のエスタブリシュメントの
一部をしめる買弁たちの姿と存在です。

買弁たちは、つまるところダブルエージェントなのです。
究極のところ誰が誰をだましているのか。

その構図は不明です。

時代によりどちらにも
接近できるのが買弁の強みです。

でも貿易や数々の戦費調達の必要性から
国際金融のネットワークから離れて存在することのできなかった日本が、
明治の初期以来この種の存在を必要としたのは厳然たる事実です。

経済的な利益だけを追い求めて買弁をしているうちはまだ害が少ないのですが、頭脳までもが、買弁的な思考に毒されてしまうと、その先に待ち受けているのは、同胞日本人への見 下ろした視線(宣教師的!!!)と思考崩壊です。

庶民の日本人たちはこのような買弁たちに
一面憧れそしてそこに胡散臭さを
本能的に感じ取っていたはずです。

白洲正子が戦後に、多額の金を使いながらも日本の伝統美を様々な形で探し求め、それを記録の形で残したのは、この抜けることのできないおぞましい買弁という構図への皮肉な抵抗だったのかもしれません。