読売新聞、
日本テレビとアメリカCIAの関係


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このペンタゴンによる、日本テレビ創立には、アメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベレット・ダークセン上院議員が、

「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として、議会への説得工作を展開した。

正力松太郎氏がCIAに操縦されていた歴史的事実を明らかにした。
その根拠は、例によって、米国公文書館の公開された外交機密文書。

正力松太郎氏と渡辺恒雄氏がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、米国政府の心理戦争局の内部文書Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53に明記されている。

正力松太郎氏の圧倒的なファイルの量。

同じCIAのファイルとして既に研究されている岸信介元首相や
重光葵元外相のものと比べても、圧倒的な厚みであるという。

CIAが正力を如何に徹底してマークしていたかの証明である。
しかも正力を「PODAM(ポダム)」という暗号で呼んでいる。

1951年、公職追放を解除された正力松太郎氏は、
日本テレビを作ろうと資金集めにかかる。

VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の
共和党右派・上院議員カール・ムントは正力松太郎氏に、
VOAのTV版創立を働きかける。

その結果ペンタゴンの資金提供で、
日本テレビは創立される。

目的は米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、
日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうため。

TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、
そちらの方に、日本人の気を反らすため。

正力とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、
両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 

正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。

読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、
CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。

緒方竹虎氏と正力松太郎氏がCIA協力者だった事実
~09年7月26日毎日新聞朝刊
緒方竹虎氏は1955年には「POCAPON(ポカポン)」の暗号名を付けられる。

CIAの暗号名を持つ有力な工作対象者は他にもいた。

例えば同じ時期、在日駐留米軍の施設を使って日本テレビ放送網を創設するため精力的に動いていた正力松太郎・読売新聞社主(衆院議員、初代科学技術庁長官などを歴任)は「PODAM(ポダム)」と呼ばれていた。

加藤哲郎・一橋大大学院教授(政治学)によると
「PO」は日本の国名を示す暗号と見られるという。

また、山本武利・早稲田大教授(メディア史)は「CIAはメディア界の大物だった緒方と正力の世論への影響力に期待していた」と分析する。

暗号名はCIAが工作対象者に一方的につけるもので、緒方、正力両氏の場合、いわゆるスパイとは異なるが、CIAとの関係はメディアと政治の距離も問いかける。

1920年、警視庁官房主事として、戦争に反対する労働組合等を弾圧した正力松太郎氏は、24年、読売新聞を買収。

この新聞で、第二次世界大戦中、戦争を煽った事によって、読売新聞の事実上の創立者・正力松太郎は、45~48年まで戦争犯罪の容疑で巣鴨拘置所に拘置される。

51年、公職追放を解除された正力松太郎は、日本テレビを作ろうと資金集めにかかる。

当時、世界の支配者として姿を現しつつあった米国には、アメリカの政策が正しいと宣伝する目的で、米軍の別働部隊としてラジオ放送局VOAが創られていた。

VOA創立者のサウス・ダコタ州選出の共和党右派・上院議員カール・ムントは、部下であるニューヨークの弁護士=議会対策の顧問弁護士であり軍人でもあったヘンリー・ホールスウセン少佐を、日本に派遣し、正力松太郎氏に、VOAのTV版創立を働きかける。

ヘンリー・ホールスウセンはユニテル社という
極東全域を支配する、米軍用TV企業を経営していた。

正力松太郎は米国・国防総省と政界に強いコネを持つ、ワシントンのマーフィー・ダイカー・スミス&バーウェル法律事務所を通じ、アメリカ国防総省に、日本テレビを日本支配=米国の政策宣伝TVとして創立する趣旨を伝え、ペンタゴンに協力を要請、承諾を得る。

この「提携」の下、ペンタゴンの資金提供で、日本テレビは創立される。

このペンタゴンによる、日本テレビ創立には、アメリカ上院外交委員会のバーク・ヒッケンルーパー上院議員、ジョン・スパークマン上院議員、軍事委員会のエベレット・ダークセン上院議員が、「米軍が日本本土で行う軍事作戦に関し、

日本人が関心を持たず、警戒せず、無知で居続けてもらうためには、TVで、娯楽番組、スポーツ番組を大量に放送し、そちらの方に、日本人の気を反らす必要がある」として、議会への説得工作を展開した。

CIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎

これは超弩級のニュースである。

週刊新潮2月16日号で、早稲田大学の有馬哲夫という教授が、
正力松太郎がCIAに操縦されていた歴史的事実を明らかにした。

その根拠は、例によって、
米国公文書館の公開された外交機密文書である。

しかも彼が見つけた文書はいまだ殆ど誰も手にしていない文書であるという。
研究者にとっては願ってもない貴重な文書だったと有馬教授は述べている。

この発見がこれからどこまで日本で波紋を広げていくのか。
その文書から有馬教授が読み解いた事実の一端は次のとおりである。
 
まずそのファイルの量である。

同じCIAのファイルとして既に研究されている岸信介元首相や
重光葵元外相のものと比べても、圧倒的な厚みであるという。

CIAが正力を如何に徹底してマークしていたかの証明である。
しかも正力を「ポダム」という暗号で呼んでいる。
 
正力は東京帝大を出て警察庁につとめ戦前、
無政府主義者、共産主義者の取締りで名をあげたという。

その正力は政界の大物から大金を借りて当時わずか5万部に低迷していた読売新聞を買収し、自ら陣頭指揮をとって、奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させたといわれている。

米国はその正力に目を付け、援助を与えることによって
彼のマスコミに対する大きな影響力を利用しようとしたのだ。

日本全土に、親米・反共のプロパガンダを流す手段にしたのだ。
 
今度の研究で具体的に明かされた事実として、
CIAが1000万ドルの借款を正力に与えて、
全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていたという。

これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、
アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であったという。
 
幸か不幸か、この工作は成就直前で破綻した。

その原因は、「正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・

近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられたためCIAが作戦を見直したからである。
 
それにしてもCIAは資金や女性問題、果ては麻薬によるコントロールまであらゆる情報をファイルして工作対象者をマークしていることがこの文書で明らかにされている。

正力氏の場合は、「テレビのベンチャーに対するアメリカの資金供与」と記載されていたと有馬教授は書いている。
 
これまでにも岸信介元首相をはじめとして様々な日本の指導者が米国の手先となって、米国の日本間接統治に手を貸していたことが明らかにされている。

しかし今回のCIAの正力ファイルは
この事実をここまで詳しく明らかに示した。

読売グループが何故ここまで対米追従のメディアであるのかは、
この歴史的事実からつじつまが合う。

あれから半世紀、小泉、竹中は言うに及ばず、
米国CIAの日本工作は我々国民の知らないところで
驚くべき広さと、深さで進んでいることであろう。

しかし恐れる必要はない。

その事実が国民に知れた時点で、
大きなしっぺ返しを食らう事になる。

最後の決めては情報公開である。
内部告発でも、密告でもなんでもいい。

とにかく一つでも多くの隠された事実を白日の下にさらすことだ。
これこそがジャーナリズムの使命であり、醍醐味である。

敗戦当時、日本にはテレビ局はNHKしか存在しなかった。

米軍は3S作戦実行のため、戦前からのCIAスパイである読売新聞の創立者、正力松太郎とその部下渡辺恒雄(現在の読売新聞・経営者)に「命令」し、CIA直営のテレビ局として日本テレビの創立を命令する。

CIAスパイエージェント正力松太郎は、CIAの資金で読売新聞を日本最大の新聞に育て上げるが、戦争中読売新聞は、日本の中国侵略と日米戦争を大々的に「アオッタ」新聞である。

日本に中国侵略と日米戦争を行わせる事は、
CIA新聞である読売新聞を使った米国の戦略であった。

正力松太郎と渡辺恒雄がCIA工作員として、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍を創立し、その経営資金がCIAから出ている事実は、

米国政府の心理戦争局の内部文書
Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53
明記されている。

郵便局民営化に徹底的に反対した経済学者植草一秀氏等が、電車内でのチカン容疑等でマスコミに徹底的に叩かれる理由がこれで明確になる。

日本のマスコミは「米国に対し反抗的な人間のスキャンダル等をマスコミに流し、社会的に抹殺する」心理戦争部門として作られた米軍施設である。

読売新聞、日本テレビ経営者渡辺恒雄氏は、CIA工作員として日本最大の新聞社、そしてCIAテレビ局=日本テレビを経営し、3S計画としてプロ野球・読売巨人軍を大々的に宣伝し、日本にプロ野球ブームを拡げて行く。

日本の新聞社、テレビ局等のマスコミ、プロ野球等のプロスポーツが日本人に「貴重な政治経済問題を考えさせず、問題から目を外らす」ための米軍の「支配の道具」として作られて来た事実が浮かび上がって来る。

米軍が武器を持ち日本に駐留し、日本を支配下に置いているように、読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍は、米軍の「兵器」として「作られた」。

なお、読売新聞、日本テレビの創立者正力松太郎のCIAスパイとしての暗号名はポダムpodam、CIA・米軍の日本支配組織としての読売新聞、日本テレビ、プロ野球・読売巨人軍のスパイ組織暗号名はポハイクpohikeである。

※・・正確には中小零細新聞社であった倒産寸前の読売新聞社を正力松太郎氏がCIA資金で買取り、渡辺恒雄氏と共にCIA資金で日本最大の新聞社に成長させた事になる。

http://www.gameou.com/~rendaico/mascomiron_yomiurico2.htm

戦前、正力は、東京帝大を出て警察庁につとめ、主として左派運動取締りの任に当たっていた。関東大震災時の朝鮮人、中国人、無政府主義者、共産主義者に対する虐殺の指揮者であった。

ところが好事魔多しでその後、虎の門事件として知られる後の
昭和天皇となる皇太子テロ事件の責任をとって辞職した。

その後、
経営危機にあった読売新聞を買収し、
その社主として転身する。

正力の経営手腕は高く、
奇抜な企画や大衆に親しみやすい紙面つくりに励み、
毎日、朝日につぐ大新聞に読売を成長させた。

その功により、敗戦まで社主の地位を維持した。

戦後、社内に読売争議と云われる内紛が第一次、
第二次と二度にわたって発生する。

その間、正力は、戦犯として収容された。
その後釈放される。

その後の正力の歩みの特異性を指摘したのが、
有馬哲夫教授のCIAに日本を売った読売新聞の正力松太郎」記事となる。

それによれば、CIAは、釈放された正力に対して、1000万ドルの借款を正力に与えて、全国縦断マイクロ波通信網を建設させようとしていた。

これが完成した暁には、CIAは日本テレビと契約を結んで、アメリカの宣伝と軍事目的に利用する計画であった。正力はこの時、「ポダルトン」と命名されたスパイ名で暗躍している。

ところがここに内部告発が登場する。
次のように記されている。
 
正力とアメリカの国防総省が陰謀をめぐらし、正力氏がアメリカの軍事目的のために、アメリカの資金で全国的な通信網を建設しようとしている・・・

近代国家の中枢神経である通信網を、アメリカに売り渡すのはとんでもない」という怪文書がばらまかれ、国会で取り上げられたためCIAが作戦を見直したからである約1カ月後の11.6日、衆議院の電気通信委員会でも、怪文書が読み上げられるという大騒動へと発展した。 

防戦に回った正力は、12.7日、衆議院で参考人招致されて喚問を受け、弁明に終始した。こういう経緯を経て、この計画は頓挫せしめられた。

正力を主人公にした「ポダルトン作戦」は失敗に終わった。

正力氏とCIAが共に夢見た「マイクロ波通信網」は潰えたが、両者の共生関係はその後も途切れることはなかった。 

正力はその後、原子力開発行政に深く関わることになる。
これについては、「原子力発電史考」に記す。

正カの衆議院参考人招致と同じ1953年12月、アイゼンハワー大統領は、「原子力を平和のために」と唱え、キャンペーンを始めていた。

が、その矢先の翌年3月、アメリカの水爆実験が行われたビキニ環礁で
第五福竜丸が死の灰を浴びる事件が起きてしまった。

日本では激しい反核、反米運動が巻き起こり、
親米プロパガンダを担当するCIAの頭を悩ませていた。

一方の正力氏は、政界出馬に意欲を燃やし、
アメリカのキャンペーンに呼応するかのように、
原発推進の立場を明らかにしていた。

おそらくCIAにとって正力の存在は地獄に仏だったに違いない。

この時、正力氏の尖兵として、原発導入のロビー活動を行っていたのは、1000万ドルの借款計画で活躍した柴田氏だったが、彼が接触していた人物は、やはりCIAのある局員で、CIAファイルには、この局員が書いた多数の報告書が残されている。

CIAは、正力が政治家となる最終日標が、
総理の椅子だということも早くから見抜いていた。

1955年2月に行われた総選挙で、正力は「原子力平和利用」を訴えて、苦戦の末に当選し、同年11月、第3次鳩山内閣で北海道開発庁長官のポストを得た。

CIA文書は、この時、鳩山首相が正力氏に防衛庁長官を打診した際、正力氏が、「原子力導入を手がけたいので大臣の中でも暇なポストにしてほしい」と希望した内幕まで伝えている。

この時期から読売新聞と日本テレビはフル稼働で原子力のイメージアップに努め、CIAは原子力に対する日本の世論を転換させたのは正力の功績だと認めている。

当然、CIAと気脈通じた活動であったことが推定される。このように、戦犯釈放後、その身をCIAエージェントとして立てた大物として正力氏、児玉氏、岸氏が挙げられる。

「今回のCIAの正力ファイル」は、「日本の指導者が米国の手先となって、米国の日本間接統治に手を貸していた」ことを証明したことになる。

その原動力はナベツネの仇名を持つ渡辺社長であり、転向左翼でハイエナの嗅覚を持つ渡辺恒雄氏の人生航路は、『政界影の仕掛け人』(角川文庫)に大下英治氏が書いたように、自己中心主義者の権力志向の歩みだった。

政治部の渡辺記者は大野番として出発したが、大野伴睦氏や児玉誉士夫氏に密着して子分役を務め、暴力団の東声会のクラブの運営委員に連なったり、ロッキード事件の前にワシントン特派員として、児玉の対米窓口を果たしたとも噂された。

また、児玉氏が乗っ取った出版社の弘文堂では、若き日の中曽根氏と共同経営者に名を連ね、その時の株主仲間には児玉氏や中曽根氏の他に、

大橋富重氏、萩原吉太郎氏、永田雅一氏、久保満沙雄氏のような、戦後の疑獄史の裏面に出没した政商たちが、読売の現役記者だった渡辺会長と共に名を連ねている。

こうして築いた資金と暗黒人脈を背景にして、ダーティーな疑惑もものともせずに、読売に堅固な砦を確立したナベツネ氏は、最後には中曽根康弘氏の刎頸の友として策動し、中曽根氏に天下を取らせてヤクザ政治の実現を果たした。

その辺の具体的なことは『平成幕末のダイアグノシス』の中に、『日本列島を制覇したヤクザ政治とカジノ経済の病理』や『カジノ経済と亡国現象を生んだ'日本のサンクチュアリー』として詳述したので、そちらを参照して貰うことにしたい。

いずれにしても、駆け出し記者の時代から札ビラを切ったナベツネ氏は、表と裏の世界のドンの両方に繋がった、知的フィクサーとして記者仲間では有名で、そんな人物が日本最大の新聞を支配しているのである。