それはどこまでも刹那的な生き方。 | DONT TRUST OVER FIFTEEN

それはどこまでも刹那的な生き方。

毎日毎日非建設的な日常を送るのにそろそろ危機感を感じながら、封を切っていない3ヶ月分の進研ゼミを眺めている金曜の10時30分。こんばんは、K坊です。


今日はいつもとは志向を変えて、学校のことでも書こうかな。


3日間の修学旅行を終え、3日ぶりに見る校舎。体育祭を2週間前に控え、3学年それぞれの3日の修学旅行の成果を発表する全校集会が行われたのが2時35分6校時目のことだった。


僕の学校では毎年2学年が修学旅行先のホテルで新しい応援を作るというふざけた伝統があり、現在3年生の僕は去年の今日を思い出しつつ、バスケットゴールが6つと無駄に高い天井とこれまた無駄に多種多様な形をした線が貼り付けられているほぼ正方形の体育館内で、目の前で行われている2年生の「創造」した応援を眠気に耐えながら眺めていた。


終始僕はうわぁ恥ずかしい、よくやるよなこんなと冷めた目で見ていた。


自分が何か一般人を逸脱した無感動な人間のように思えてくる。


しかし2年生の応援。


こんなえらそうなことをいえる立場に無いが、なんというか、一言「よくやった」。


少なくとも去年自分たちが作った駄作よりは見れる。あれを全校の前でやれといわれた時はおいおいマジかよって感じだったし、他の組の応援がまたいい出来ばかり見せつけてくれやがる中で、自分たちのナンセンスさと糞みたいなユーモアセンスを強調された時は5組一同ひざを抱えて下を見ていた。


そのトラウマの根源、「カーニバル」ひたすらやたらに「ワッショイ!!」と「ヤッショイ!!」を繰り返すだけのいかれたスペック。あれをまさか1年たった今再びやることになるのか。最悪だ。


想像しただけでトラウマが無理やり記憶のそこからほりおこされてくる。


もうたくさんだ。


そんな気分の悪くなることを考えるのはよして、もっとビカビカ光る明日のことを考えよう。


そうだ。


2年の応援をメインにして僕たちの応援は物陰に隠しておこう。これ以上トラウマを深刻にしないでくれ。


頼むから。