今の施設で暮らすのが、とても辛い時があります。


 その理由は、たぶん、色々ある理念が、『そこに戻るべきの状態』とは、認識されてないこと。

 『そうあれたら良いねー』

くらいの感覚だと感じる。

『安全第一』と掲げてる工事現場が、『安全だと良いねー』の感覚で作業を進めていたら、何か危険なことがあっても、防げないことが出てくると思う。


 『安全じゃない状態』が起きた時に、『なるべく安全が良いよね』だと、時間を使ってそれを防ぐことを考えるまでは行けないと思う。

その時に、『安全に物事を進めるには、どうしたら良いか』を話して始めて、『安全じゃない状態』を変化させられる可能性がある。


 だから、今の施設では、弱さが絆にならずに、弱さが分断を生んでも、『絆になったら良いねー』くらいの立ち位置になっていると思う。

 弱さって、結局多くの場合、『何かが出来ない』『何かが苦手』なことが多い。例えば、相手を恨んでしまうような弱さが誰かにあったとして、それを絆にするのは難しい。そのままなら、誰かと誰かの分断が起きる。


 たぶん、その弱さが絆になるとしたら、弱さの情報公開の形をとったのかもと思う。そのためにはまず、『人を恨んでしまうことの辛さ』をその人か抱けているのか、という問題があると思う。 

 ただ、人を恨んでいたら、それは、弱さというよりは、強さの形で出てきたりすると思う。『あいつが悪いんだ!恨まれて当然だ!』となるだろうから。 

 『本当は、人のことを恨みたくないのに、恨んでしまう…辛い…』という、弱さの形でそれが表されたら、恨まれてる方も、『…私も、人を恨んでしまうことはあるなぁ…そうしたくなくても』という、弱さを語り合うことが出きる可能性があると思う。


 それが出きるかどうかは、『弱さを語り合う文化があるか』になると思う。 

自分の中にある、ある部分を、自分の弱さとして語るのは、とても難しいことだと思う。誰かから、『え?なんでそんなことになるの?こうは出来ないの?みんな、そうしてるでしょ!』と言われたら、もう、言い返せなくなるから。 


 私は、人との関係のなかで、お互いに大切にし合える関係を作りたいと思っている。 

その時に、相手に、マイナスの感情を抱く時は当然出てくる。

その場合に、

『今、あなたにこんな感情を抱いちゃって、申し訳ないし、辛い…でも、とうしても、そう思えてしまう…』ということを、言ってもらえる関係になりたいと思う。


 また、私も、相手にその事を伝えられるようになりたい思いがある。 

 そこで、『お互いに、弱さがあるよね。相手にマイナスの感情を抱いた時に、どうしたら良いんだろう…何か、出きることがあるかな…』ということを、一緒に考えていけたら…そうしたら、弱さは絆になっていく可能性もあると思う。


 けれど、『弱さが絆になれば良いね』くらいの感覚では、『あなたのことを憎んでしまう…』みたいな気持ちが起きた時に、それを乗り越えるようなエネルギーが出てこない。

 『弱さが現れたときには、絆に出きるような方法を何とか考えていこう!』という、あり方に対する理念として、その考えを持っていて、始めて何とかその方法を考えていけるんだと思う。


 私はずっと、『今いる施設の理念を使った人との関係』ができたら良いなと思っていた。

 けれど、それが難しいことを今痛感している。私は、そんなに強くないんだなぁ…と思う。 


 私は、自分を大切にしてくれる人、自分の嫌なことをしない人とでないと、その人と安心して交流できないし、その人のことを私も大切に出来ないのたと、やっとわかった。

 なので、今後は、生きる方針を変えるつもり。


誰とでも仲良くなろうとはしない。私のことを大切に扱ってくれる人に、弱さを語り、苦労を語る。

 そして、そういう相手ではない人とは、『関係を深めない人』『ただ、その場に同席してるだけの人』として、対応していこうと思う。


 例えると、電車に一緒に乗り合わせている人、みたいな。

同じ電車に乗っているからと言って、その人の弱さや苦労を知りたいのかと聞かれたら、『いや、降りる駅まで、ただ、この場に一緒にいれたら、それで十分です』となると思う。


 距離的に近くにいても、心は離れていることはあり得るし、それで良いとやっと思えた。

変えれないものを受け入れる落ち着きと、変えれるものを変えていく勇気と、そのふたつのものを見分ける賢さについて、ニーバーの祈りで考えてきた。

 それで言えば、私を大事にしてくれない人については、変えようとせずに、受け入れるしかない。受け入れ、離れておく選択を、冷静にするしかない。

普段は私を大事にしてくれる人でも、時に、大事に扱ってもらえないこともあると思う。


その時は、私が大事に扱われていると感じる形に、行動を変えてほしいと、私がちゃんと伝えて、それまでとは違う形を見つけないと行けない。 

 私を大事にするつもりがないのか、大事にするつもりがあるのに、そう出来なかったのか、その判断をするのは、私が『それをされるのは嫌だ』と伝えた時に、その行動を変えてもらえるかどうかになると思う。


 もし、変えてもらえなかったら、ゲシュタルトの祈りの、 


 私は私のために生き、
あなたはあなたのために生きる。

 私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

 そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。

 もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。

 出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。 


 一度出会えても、結局離れているしかなくても、それもまた、きっと素晴らしいこと、なんだと思う。

ただ、そういう1つのあり方なだけ、なんだと思う。


 今、私が思うのは、『出会えたけれど、離れているしかない人』は、過去にもいたなぁということ。 

その事を残念に思うより、私を大事にしようと考えてくれる人が居ることの方を、もっと意識した方が良いように思う。 


 私は頑固だし、交流したり、話をしたりするのは、相手も結構大変なことなのかも。 

私を大切に扱ってくれる人の存在を、今まで以上にありがたいと思わなくちゃ。どこかで当たり前に感じていたところがあったような気がする。

 そして、私も、その人達を大切に出きる人でありたい。


 出会って、結果的に離れておく人に対しては、『今までの私への対応を、ありがとうございました。どうか、お元気で…』という気持ちで、ちゃんと手を離していけたらと思います…。