昨今、東京都議会議員選挙での公明党候補者の落選、そしてそれを覆い隠すかのような聖教新聞の報道姿勢は、公明党と創価学会の間に横たわる、もはや看過できない構造的矛盾と、その存在自体の限界を浮き彫りにしています。この事態は、単なる選挙結果に留まらず、創価学会員の高齢化という避けがたい現実、そしてそこから生じる組織的機能不全、さらには両者の本質的な欺瞞を痛烈に批判する契機となるでしょう。
まず、東京都議選で公明党の候補者が落選したという「事実」に対し、聖教新聞がそれを報じず、あたかも全勝したかのような記事を掲載したことは、民主主義社会における報道機関としての責任を放棄しただけでなく、組織の都合の良い現実のみを会員に提供するという、極めて危険な情報統制の一端を示しています。この行為は、会員を「真実」から遠ざけ、ひいては自らの判断力を奪うことに他なりません。一体、何のために「聖教」を掲げているのか。真実を伝えるのではなく、信仰心を維持するためのプロパガンダ機関と成り下がった現状は、あまりにも痛烈な自己矛盾です。
そして、この「報道管制」の背景にあるのは、紛れもない創価学会員の急速な高齢化です。かつては、組織を支える強固な基盤であった「活動家」たちは、今や高齢となり、若い世代への継承は進んでいません。かつての熱気に満ちた活動は影を潜め、高齢の会員が体力の限界を超えて選挙活動に駆り出される姿は、その痛々しさすら感じさせます。この高齢化は、単に票田の縮小に留まらず、組織全体の活力、柔軟性、そして社会の変化に対応する能力を著しく低下させています。新しい価値観を持つ若い世代は、旧態依然とした教義や、政治と宗教の曖昧な結びつきに魅力を感じず、結果として組織の再生産能力は失われつつあります。
公明党と創価学会の関係性も、この高齢化と密接に絡み合い、深刻な矛盾を露呈しています。公明党は創価学会を「支持母体」とし、学会員の組織票を基盤に議席を獲得してきました。しかし、その結果として、公明党は**「国民全体の利益」よりも「特定の支持団体の利益」を優先しているのではないか**という疑念が常に付きまといます。特に、連立与党である自民党との関係においては、学会の意向が国政に不必要に反映されているのではないかという批判は尽きません。
そして、その存在自体が持つ根本的な矛盾です。創価学会は「平和」や「人道の世紀」を標榜する一方で、自らを批判する者への徹底した排他性や、異論を許さない閉鎖的な体質が指摘されてきました。また、政治との結びつきが深まるにつれ、その宗教的純粋性が損なわれ、単なる政治的影響力を行使する巨大な組織へと変貌してしまったのではないかという疑念も払拭できません。教義の絶対性を信じ、無条件に党を支持するよう求められる会員は、本当に自由な意思に基づいた行動をしていると言えるのでしょうか。
都議選での落選は、これまで見過ごされてきた、あるいは意図的に隠されてきた矛盾が、ついに表面化した象徴的な出来事です。高齢化という避けられない現実、情報統制による欺瞞、そして政治と宗教が癒着することで生まれる弊害。これらは、公明党と創価学会が、もはや現代社会の多元的な価値観と相容れない存在になりつつあることを示唆しています。
今、問われているのは、公明党が真に「公明正大」な政治を目指すのか、そして創価学会が「宗教団体」としての本来の姿を取り戻し、開かれた組織へと変革できるのか、という根本的な問いです。このままでは、聖教新聞の「沈黙」が、やがて来るであろう彼らの「黄昏」を告げるものとなるでしょう。