Voodoo Chile. | 悠志のブログ

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Jimi Hendrix’s Voodoo Chile/Eric Clapton’s Voodoo Chile

指田悠志

 

 最近、Jimi Hendrixの、Voodoo Chileを頻繁にYouTubeで聴いている。2つのヴァージョンがあって、ひとつは15分に及ぶ長い演奏。もうひとつは(Slight Return)とサブタイトルのついた短いヴァージョンだが、殊に多く聴いているのは、長いヴァージョンの方だ。このロング・ヴァージョンはレコードが出た時点で、一発録りのスタジオ・ライヴだったことが公表されていた。

 ひとつ、言えるのは、大音量だということだ。この演奏に関する詳しい事情は、詳細を知っているひとがブログかなにか書いているだろうから、そういう情報を参照してほしいが、僕は詳しい事情はわからないが、これをちゃんとしたオーディオ・コンポーネントに通し、大音量で聴いてみると、ギターが、常識はずれの音量で演奏されていることだけはわかる。おそらくマーシャル・アンプを何台もつなぎ、フルボリュームでのライヴであることはわかる。トレモロ・アームを使っているので、おそらくはストラトキャスターで演奏しているのだろう。

 Jimiが指力のつよいギタリストであることは、昔から言われていた。この曲でもストラトキャスターをフロント・ピックアップにセットして、高音弦を野太い音で鳴らしている。そのことからJimiは、1弦が.010の太い弦をつかっているのではないかと、言われていた。現在ではその辺の情報も公になっているだろうから、そういう情報を誰かがブログに書いているのを調べてほしいが、Jimiだからこそ、その指力だからこそ、そういう太い弦でも2音半チョーキングなどたやすくこなしてしまうのだ、などと、まことしやかに言われていた。1弦の2音半チョーキングはJimmy Pageのようなギタリストでも弾いたが、Jimmy Pageの場合は.008の弦だったことは明らかで、普通のギタリストならそれで折り合いをつける(この話。Led ZeppelinのSince I've Been Loving YouでのJimmy Pageのギターソロでの2音半チョーキングの話をした時、Jimmy Pageの弦について知っているひとがいて、そのときJimi Hendrixの話が出、Jimiなら.010の弦でも2音半ぐらいやりかねないと、それも中指1本でもやらかしそうだと、笑い話っぽくなったが話したのだ。ほんとうに真実味のある話として)。真偽のほどは情報通の方のブログなどを頼りに調べてみてほしいと思う。

 この曲の演奏、のちにEric Claptonにもカヴァーされているが、この演奏の優劣、イントロで勝負がついている。出来のいいのは言うまでもなく、Jimiのヴァージョンだ。これはもう、Jimi Hendrixの最高傑作のひとつだと思う。たぶんスタジオ演奏では1、2を争う出来、Jimiにはライヴにも名演が多いが、それでも5本の指に入る名演奏だと思う。どちらもSteve Winwoodがサポートのオルガンを弾いている。Winwoodのプレイは新旧どちらのテイクも甲乙つけがたいのだが、肝心のギターはEricのヴァージョンも白熱はするけれど、ちょっと上手いギタリストだったらこれくらい誰にだってできるだろう、という、耳の肥えてきたオーディエンスが想像できるような演奏しかできていない。そもそもが、Jimiのヴァージョンがもっていた〈圧倒的な威圧感〉がEricのギターにはない。この曲のJimiの最初のフレーズを聴いただけで、普通のひとは「おっ!」と威圧されてたじろぐはずだ。だからイントロで勝負がついていると言ったのだ。最初からこれで、このテンションが最後まで途切れることなく続く。Jimiはイントロからエンディングまで特別なことをやっている。それがまるで、当たり前のことのように。

 このふたりの演奏の落差。それは、ふたりのキャラクターにも原因があると思う。Ericの演奏は、丁寧で上手く、繊細さもあり、完成度も高く調っているけれど、Jimiの演奏がもっている心臓を引き裂くような迫力、緊張感にはかなうべくもない。つまり、Eric Claptonは、こういう野性味あふれるナンバーを演奏するには、お行儀が良すぎるのだと思う。一方、Jimiの演奏は上手いというよりも大胆で、そのくせ意外に緻密で、それでも野性味たっぷりで、そういうところに破天荒さがあらわれている。

 よく言われるが、Jimi Hendrixぐらいの上手さのギタリストなら、世の中に幾らでもいる。だが、上手さでいうより、音楽という形式で何を表現するかを突き詰めて考えた時、音楽を曲芸的でなく、アーティスティックに考えた時、Jimiの表現力に匹敵するほどのギタリストがどこにいるだろう。

 ふたりの比較にもうひとつ付け足すとすれば、EricがBluesに縛りつけられているように感じられるのに対して、JimiはBluesに解き放たれている印象があるという点。つまり、Ericは自分で自分をBluesという観念の〈枠組み〉の中に閉じ込めているように感じられる。何故って彼の演ずるVoodoo ChileはJimiの演奏に比べて、聴けば聴くほど窮屈に思われ、余裕が感じられない。Jimiの奔放さとは雲泥の差だ。つまりEricのやったのは、White Bluesのミュージシャンにありがちなことで、〈形〉に惚れすぎたのだ。一方のJimiは、Bluesという表現の〈翼〉で、際限の無い空を自由に羽ばたいている。JimiにとってBluesは自己を表現する自由な形式で、そこにあるルールは僅かであって、あとは〈心〉しかない。Spirit。ジャズでもロックンロールでもそれはおんなじ。むつかしいルールはない。

 Ericは“God”といわれていた頃の存在感を永い歳月の末に取り戻し、すばらしい演奏をするようになったのだが、それでもVoodoo Chileを演るのは、あまりにも無謀。Jimi本人だって二度と演奏しなかったのだ(未確認。調べられる人は調べてほしい)。難易度が高すぎるのだ。Ericの13分近くに及ぶ演奏時間(15分に及ぶライヴ演奏も観たが、それは13分の演奏より冗漫で退屈だった)をそれ以上に長く感じたのは、この曲の存在意義を取り違えたところから端を発している気がする。Jimiがこの曲で何をやろうとしたか。15分に及ぶJimiのVoodoo Chileの長い演奏は、ほとんどがアドリブで型にはまらず、自由度が大きい。Steve Winwoodによると、楽譜を見せられたわけでもない、一発勝負のインプロヴィゼーションだったという。Wikipediaにある某エンジニア(エディ・クレイマーでした)の話によると、この曲でのJimiのプレイはアドリブというよりも、あらかじめ考え抜かれたうえでの演奏だという。どっちかがほんとうのはずだが、あらかじめ決めていたにせよ、あの異様なほどのテンションの高さは、緊張の糸が最後まで切れずに演奏が行われたことの証明と言える。そのことこそが重要なのだ。長い演奏が終わりに近づくにつれて、多くのオーディエンスに〈名残惜しさ〉を感じさせるほど、それはゆたかな演奏だった。名演とはそういうものだ。Jimiは自らの命の糸を削るようにして名演を生んでいたような気がして仕方がないのだが、ほんとうの意味で〈示申〉だったのはJimiの方だったのかも知れない。