ドラマ「テレビ報道記者」感想(まとめ) | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

 日本テレビ開局70年スペシャルドラマとして企画された、報道に携わる女性たちのドラマである。「ニュースをつないだ女たち」というサブタイトルが付いている。

 見た印象だが、TV報道の歴史というよりも、「TV局を舞台にした、働く女性たちがこうむった性差別の歴史」を描いたドラマだと思った。日テレの女性報道記者のレジェンド、曽根昭子(仲間由紀恵)の時代のことを思った。男性社会の中で働く女性は、とかく偏見の眼で見られる。高学歴で頭がいいと憎まれ、嫌みを聴こえるように言われ、彼らを見返してやろうと立てた手柄は、色仕掛けで取ったんだろうと僻まれ、結局、上司に横取りされることもあったろう。出世コースにはもちろん乗れない。結婚話もあったけれど、自分は働いていたい。女の幸せは結婚だけではないはずだ。けれども世間(会社)の見方は違う。25歳までに寿退社しないと〈お局様〉と言われる。総合職なのだからベテランになれば昇進できるかと思ったが、見下していた新人男子にまで追い越されてゆく。活躍の場を与えてくれる上司もいたが、その上司が左遷されたら、また情勢は逆戻り。いや、もっと状況は悪くなってゆく。女のくせにしゃしゃり出るなと二言目には言われる。同性の女性ですら、彼女の陰口を叩く。キャリア組の女性には足の引っ張り合いしかない。こんな下らないことのために自分たちは働いているのではないはずなのに。……という時代があったように感じられた。

 

 ドラマは1995年5月15日深夜山梨県某所(おそらくは旧・上九一色村、現・富士河口湖町内だろう)のラブホ(モーテル)から始まる。オウム真理教の一連の事件の主犯である、麻原彰晃(本名:松本智津夫)の逮捕の瞬間を取材しようと詰めている、日テレの報道記者の様子が描かれる。逮捕の場面は僕も見ていたけれど、このドラマではオウムが彼らにサリンを撒くんじゃないかと、戦々恐々としている様子を描写している。実際そういう噂は当時まことしやかに囁かれていた。芝川町の秘密工場では機関銃「カラシニコフAK47(或いはAK74)」が量産されているという報道もあったし、都内の浄水場にサリンを撒いたり、ヘリコプターでサリンを空中散布したりして東京を壊滅させるんじゃないかという戦慄的な憶測・噂もあった。

 松本(麻原)が大量殺戮におよぶ行動を起こしたのは、衆議院議員選挙において、政界進出を阻まれたことに端を発したと言われる。松本は現代のヒトラーになりたかったのではないか。選挙後、「誰かが開票時に票の操作をおこなったのではないのか」と彼は言っていた。まるでトランプの言った言葉そのままだ。このことがきっかけで、日本という国家を亡ぼすべく、行動を起こしたことと推定される。これはWikipediaにも書いてあることだから書かなくてもいいかもしれないが、気づいていないひとのためにここに書いておく。

 僕の住む富士宮にもオウムの支部はあったから、市民プールにオウムの信者が大挙してやってきて、脱衣場をシラミだらけにしてしまったという話も聞いたし、市内を徘徊する白衣のオウム信者を市民が怖がっている状態が、1980年代後半ごろからずっと続いていた。

 1995年3月20日付の夕刊トップの見出しの文字は未だに覚えている。黒地に白抜き文字で「地下鉄にサリン」とバカでかく印刷されていた。当日の時点でオウムの仕業であることは、多くの国民には察しがついていた。松本サリン事件も当初、第一通報者が怪しまれたけれど、それが濡れ衣だということはだんだんわかってきたし、坂本弁護士一家の失踪(殺人)事件もオウムの仕業であることは誰もがうすうすわかっていた。にもかかわらず、地下鉄サリン以後毎日ワイドショーではオウムの幹部、上祐史浩ほか幾人かが出演し、詭弁を弄して視聴者を煙に巻いていた(「ああ言えば上祐」などと皮肉られていた)。あの頃TVカメラの前で報道陣に囲まれている村井秀夫幹部が何者かに刺されて死ぬという事件があった。ほかにも警察庁長官の狙撃事件や、信者殺害事件など、多くの死傷者がでた。

 オウム真理教で重要なのは、〈ポア〉という言葉だ。〈ポアする〉という言葉は、殺人を意味するが、人を殺すことで殺された人が救われ、より高い世界に転生することを意味する。だが、聞こえはいいが、その実、この〈ポア〉という言葉は、残虐な殺人を美辞麗句のように飾りたて、正当化した言葉に過ぎない。オウムは大量殺戮を行い、それだけでなく国家転覆をはかったおそろしい教団であったことに変わりはないのだ。

 あの当時、地下鉄サリン事件をまねた、列車内や駅構内や繁華街のトイレ、旅客機の機内などで、異臭騒ぎが相次いだ。これらはオウムではなく、模倣犯・愉快犯の犯行だったが、人騒がせなこういう事件が地下鉄サリン事件以後、2、3年のあいだ相次いだことも、記憶しておくべきこととしてここに記しておく。

 麻原彰晃の隠れていた第6サティアンの隠し部屋はサティアン内部の中二階になっている、入り口も出口もない場所にあったというのは、逮捕当日聞いた話。逮捕に時間がかかったのもそういうことがあったせいだ。

 このドラマではオウムの事件のほか、コロナ禍のこと、東日本大震災、秋葉原での大量殺人事件のことに絞って、ピンポイント的に描かれる。たぶん松本サリンや阪神淡路大震災、もっと前の日航機の墜落事故、グリコ森永事件のことまで大風呂敷にしてしまうと、深い掘り下げが出来なくなるという配慮なのだろうと思われる。実際オウムとコロナを集中的に描くところは、ドラマの描き方として間違っていないと思った。

 

 主人公・和泉令(芳根京子)と真野二葉(江口のりこ)の会話。取材先で「人の不幸で飯食ってんじゃねえよ」と塩を投げつけられた令に、

 「これも仕事だよ」という二葉。

 「人に嫌な思いさせてもですか?」

 「嫌がる人もいるけど、話したい人もいる。聴くまえに決めつけないで」というセリフがあった。

 報道記者の基本的スタンスのとり方を伝授している、印象的なセリフだった。

 

 恵比寿駅のトイレで生れたばかりの嬰児の死体遺棄事件発生。ハロウィーンのときの容疑者のバニーちゃんの写真を報道につかったが、イメージ操作の印象が強く、こういう報道でいいのかとは思う。彼女は声優になりたかった。だからキャバクラで客に猫なで声をだして甘えたり、売春まがいのことをしたりしたかも知れない、そういうこともほんとうはしたくなかったけれど、「夢を叶えるため」と思って目をつぶったのだろう。最終的に法を犯し、赤ちゃんまで捨ててしまった。誰がこんな人生を歩みたかっただろう? 夢のために人生まで棒に振ってしまう生き方(夢を叶えるために犯罪にまで手を染めてしまう生き方)。それでよかったのだろうか。だが彼女の心中にあるのは男に媚を売ることでは無く、男たちの玩具にされることでも無く、ただひたむきに声優になりたかった。そのようなことは、ドラマにちらっと紹介された卒業文集の中の〈将来への希望〉という作文の中にありありと描かれていた。世間はこの女性を〈怖い女〉という。こういう時、マスコミも世間も遺棄致死を行った女性にだけ眼がゆく。だが赤ちゃんは女性一人ではつくれない。必ず男がいる。彼らはひとり残らず、彼女をセックスの相手としか見ていない。ただ気持ちいい思いをしたいというただそれだけのために、金をつぎ込み、彼女を慰みものにしようとする。こういう事件は昔から嫌というほどよくあるが、男たちに責任はないのだろうか。女性は妊娠したくて妊娠したのではないはずだ。むしろ彼女はこどもなんか作りたくなかったし、セックスなんかしたくなかったかも知れない。この事件でも容疑者は、産んで遺棄致死させた後、声優のオーディションにまっすぐ向かっている。こどもを育てる前提で生きていたら、産科に通い母子手帳を貰い、定期的に検診を受けて、いいお母さんになるよう準備を始めていたはずだ。誰にも相談できなかったから、こういう事件が起きたのだ。せめて誰かにアドバイスされて里親制度の存在を知り、産科に向かっていたら、こんな悲劇にはならなかった。産後、養子縁組をして、別の夫婦に赤ん坊を引き取ってもらう手もあることに気づいていたら。でも、違うのかも知れない。彼女の希望は声優なのだから、赤ん坊の存在そのものが邪魔なのだ。彼女の本音は〈妊娠したこと〉〈産んだこと〉をなかったことにしたかったのだ。ほんとうは中絶したかったのだろうが、キャバクラで稼いだお金は、声優の養成学校に通うお金に全部つぎ込んでしまい、さらに相手の承諾も得られなかったのだろう(複数の男性と関係があり、誰が父親なのか分らなかったのかも知れない。相手にその承諾書にサインしてもらうことを拒絶されたのかも知れない。そんな下らぬことは相談せずに自分一人で決めろと、彼らに決断を強要されたのかも知れない)。こういう時、社会には道義的責任はないのだろうか。一方的に彼女のことばかり責めるのは筋違いのことだと思う。そんなことだからいつの世も赤ちゃんの遺棄致死事件が頻発するのだ。これからもこんな事件は起こりつづけるだろうと思う。

 

 ドラマは1980年代から1990年代にかけて活躍した曽根昭子(Wikipediaには〈曽根京子〉と表記されていた(〈芳根京子〉と一字違い。混同したのだろうか)。Wikipediaがいい加減なのはこういうところなのだ)の話と2000年代の平尾成美(木村佳乃)と二葉の話、そしてコロナ禍とコロナ以後の成美・二葉・令のことが並行的に描かれるが、場面の切り替え方に脈絡も必然性もなく、その場面の連なりが不自然に、疑問に感じられたが、幾度か繰り返し観ているうちに、それも不自然には見えなくなってきた。観るたび印象が佳くなってゆくドラマは優れている。だとすれば、僕の評価ももう少し上げるべきなのではと思った。ただ、オウムの事件を後々まで現代(2020年、2024年)や2000年代のことに挟んで編集することへの違和感は消えていない気がする。

 

 ただ、時を隔ててはいるものの、報道記者のよくやってくるとある焼き肉店での場面が幾度も登場する。昔も今も変わらないこの場面は印象的で、食べているひと、人物のシチュエーションがそのたびに違うので、面白いシーンになっていた。その焼き肉店もコロナ禍の時は一時休業を強いられる。あの頃廃業に追い込まれる飲食店も多かっただけに、この焼き肉店での時代の変遷はいっそう印象的な場面になっていた。

 

 二葉の子、湊が通う保育園もコロナ禍で休園になった。思えばコロナ禍の最初の頃は大変だった。一旦罹ると重症化する人も多く、流言蜚語が飛び交い、日頃のストレスを、コロナにかかったひとたちを誹謗中傷することでまぎらわす人も多かった。

 コロナ禍に際して自分の無力さに自己嫌悪に陥る令。「センスない」とか「お荷物」とか、Lineで呟くけれど、新人なのだからできなくて当り前。要は令には経験が足りてないだけなのだ。むかしからよく言うように〈習うより慣れろ〉なのだ。新人にはよくあるやる気の空回り。経験を重ねてゆくうちに自然にできるようになってゆくことを、最初できなかったから向いてないなんて落ち込むのは筋違い。本人は失敗が許されない職場だと思いこんでいるようだが、部下の失策には上司の目が光っていて、そのたびにチェックを受け、最終的な報道に至る。そのことをドラマでは視聴者にもわかるように演出している。こういうところ、映像表現が巧みで臨場感に溢れていておもしろい。令さん、君は無能ではない。ただ経験が足りない所為で能力が発揮できていないだけだ。平尾デスクは君のことをよく見ている。部下の能力がもっとも発揮しやすいように環境づくりのできる上司が優秀な上司だとすれば、平尾はまさしくそれだ。彼女は君に働きやすい居場所を見つけさせようと暗に示唆している。彼女のセリフのはしばしにそれを感ずる。いまはできていないようだがやがて確実にそれができるようになってくる。人間はAIではない。失敗してこそ人間なのだ。自分の失敗を平尾がフォローしてくれたのを申し訳ない。こんなことではこの職場で生きてゆけない、などと自分を追い込んでいるようだが、平尾デスクはちゃんと見ている。君の働きをもっとも生かせる手がどこにあるか、君はまだ気づいていないようだがそれを気づかせようとしている。優れた上司というのはそういうものだ。

 だがコロナ禍で手も脚も捥がれたようなつらさ。仕事と言えば政府・当局の会見だけ。そこでは数値が動きそれを報道するほかに手段がない。感染拡大につき東京からどこへ取材に出ることもできない八方ふさがり。だとするなら令が閉塞感に追いつめられるのもわかる。コロナ禍の報道のむつかしさ。僕の地元富士宮でも、最初のコロナ患者であった2人の方は、村八分に遭い、徹底的に迫害され、そして引越しを余儀なくされたと聞いた。

 

 1980年代初め。男性社会の中で苦しんでいる昭子のすがたが強調して描かれるが、その時代、「キャリアウーマン」という言葉や「翔んでる女」という言葉が流行語となった。あれは世相を反映した言葉ではなかったのだろうか。かれらは実情、あんな風に苦しみぬいて生きてゆく外なかったのだろうか。僕は蚊帳の外にいてやっと男女平等の時代が来たと思っていた。

 劇中1980年代の雰囲気を出すため、松田聖子の“Rock’n‘Rouge”や薬師丸ひろ子の“Wの悲劇”の主題歌“Woman”をBGMとして流す。これ。意図的にやっているのは確かなのだが、たぶん皮肉に感じられるように使ったのだと思う。男子に媚びを売るぶりっ子の松田聖子の歌を、報道の最前線でバリバリ働く、キャリアウーマンの昭子の勇姿のバックに使用するなど、まさにそれだ。最初、違和感があったが、それをもくろんで演出したのだろうから、違和感があって当たり前だったのだ。それと、“Woman”のなかの歌詞はドラマのムード、情景にフィットしていたと思う。

 

 秋葉原事件の報道。警官が警棒を落とした隙に容疑者が凶行に及んだという証言。裏を取らずに情報部はこの間違った報道をおこなった。間違った情報は視聴者にとって害悪でしかないのに、間違っていようがいまいが、けっして撤回しない、間違った情報でも撤回しないことで情報部のメンツは保たれる。そのことに情報部は矜持を感じている、そういう梶耕一郎社会部長の言いぶりだった。そんな下らぬことを大事にしているから、視聴者の信用を失うのだ。ワイドショーの報道がろくに裏も取らないいい加減なニュースソースなのを、開局70年記念のドラマで認めるというのは、演出として凄く勇気のいることだと思う。警視庁記者クラブ・キャップ:平尾成美が、警視総監に幾度も謝罪に行ったが、赦してもらえなかった。ワイドショーに誤報を謝罪させることで出禁を解除してもらったが、そんなことで赦されたことは、いわば奇蹟に近いだろう。ぼくが警視総監だったら絶対に赦さない。日テレの社長に警視総監の前で、頭を下げさせた映像を全国放送でもしない限り、絶対に赦さない。ともかく正しい報道の在り方を思い知らされる事件だった。

 秋葉原事件は、日テレ記者の結婚披露宴のため、警視庁に詰めているのは高梨和記 (後の高梨和美:中村中)一人。のちに女性になるジャーナリストだが、ショートヘアで男性をしていたこの頃の方が、〈女性〉を感じた。それはともかく、事件の時、警視庁記者クラブには彼女一人しかいなかったから、現場で孤軍奮闘する高梨の姿は涙ぐましいほど凛々しく、カッコよかった。

 現代における大量殺人の加害者は、ある特定の人物をねらって犯行を行うことはあまりない。罪を犯す彼らはみな少なからず、周りの人間、多くは複数の他者にいじめられた経験、侮辱された経験、嘲笑われた経験、肉体的暴力、言葉の暴力で「死ね」とか「タヒね」とか「消えろ」とか「ゴミ男」「ゴミ女」とか、ズタズタにされた経験、人格を全否定された経験を持っている。虐める方は気持ちよければ何をしてもいいのだという流儀でやっているから、何でもありだ。かれら虐待された人たちには、幸せな少年時代・青年期を過ごした人間は断言してもいいが、一人もいない。かれらが募らせてゆく激しい感情のはけ口は、その虐げた行為をした人々に向かってではなく、そういう輩を容認している世間に向かってゆく。つまりこういう加害者の心の奥底にあるのは、社会に対するはげしい復讐心である。世間のひとが巷でただ楽しそうに笑っていると、自分のことを嘲笑っているように見えてくる。彼らの多くは他人に嘲笑われた経験をもつから、そういう神経が異常に敏感になっているのだ。こういう嘲笑に日常的にさらされていると鈍感になるというより、異常に感受性が敏感になってゆく。精神を病んでしまっているひとが多いせいでもある。こんなに不幸な自分をさしおいて、幸せそうに笑っている人間たちが死ぬほど憎い、ひとをまつりあげて嘲笑っている人間たち、世間が憎いというただそれだけの、相手は誰でもいい無差別殺人である場合が、こういう事件には圧倒的に多いのだ。彼らに云ってやりたいのだ。「何が可笑しい? 笑うな!」、と。誰かを嗤っている者が誰であれ、誰もが憎いのだ。だから殺してやると思うのだ。昨今の新聞やTVのニュースをリサーチすれば、こんなことは小学生にだってわかる。こういう犯人は、警察の取り調べに対し、「(相手は)誰でもよかった」と口をそろえて言う。彼らにとって、自分の視界に入る「嗤っている人物」は、みな死に追いやるべき敵なのだ。

 

 未解決の殺人事件の時効撤廃。遺族(殊に二親)にとっては肉親(娘や息子)を喪うことは、身を千切られるような心の痛みだと聞いたことがある。殺されたのであればなおさらだ。何故? 何のために娘は死ななくてはならなかったのか。このドラマではジャーナリスト志望の女子大生の殺人事件のことを大きく取り上げている。娘を永遠に喪った親は、死んだ娘の歳を数えるのだ。「生きていれば、あなた(真野二葉)のようなジャーナリストになっていたかも知れない」ということを親御さんは言った。将来ある一人の女性の可能性を、人生におけるたった一度の凶事のために、失わなくてはならないなんて酷すぎる。どうすれば娘が生きていられる道があったか。ああすれば、あの日、娘が家にいなければ殺されずに済んだのではないか。私たちが早く気づいていればきっと、……などと親御さんというものは、色んな考えを巡らさずにはいられない。けれどもここではっきり言えることは、いくらそんなことを思いえがいても、親御さんの心を救う手立てにはならない。現実には娘さんは死んでしまっており、誰にも助けることはできなかったのだから。けれども、それでもせめてああしてやれば助かっただろうに。などと詮無いことを思うこと、それが親というものなのだ。起きてしまったことをくよくよ考えることは、現実に際して後ろ向きかもしれない。だが、わが子を思うその心に後ろも前もないのだ。

 成美(平尾キャップ)は言う。こういう事件に麻痺したふりをしていると、そのうちほんとうに麻痺してしまう。そういう真野じゃないから信用できるんだよ、と。麻痺しないために自己の感受性はいつも鋭くしていたい。そのようなセリフが劇中にあったが、こういう二葉だから令もついてくるのだ。

 

 2020年。令の目が死んでいる。#ぜんぶコロナのせい。カレが部屋から消えた。電話もLineもブロックされている。ブロックされた意味がわからない(たぶんつぶやきがネガティブすぎて、励ます言葉が尽きてしまったんだと思う。恋人として付きあえない。令のお守をいつもしてやるほど心は広くないし、器も大きくないのだ)。トイレットペーパーを買い忘れていたことに気づいて、帰って死んだ。コンビニに行っても売っていなくてまた死んだ。こんなことをSNSに書き散らして鬱憤を晴らしている令だが、まったく不毛。でも、ここ。多くのオフィスワーカーは、こんな気持ちに沈んだこともあったのではないだろうか。そういう意味でいい場面づくりができていた。

 

 養護老人ホーム。あれだけPCR検査を幾度も受けて、感染リスクを下げようとしていたのにクラスター感染が起き、死者を出してしまった。遺族は親の死顔を拝むことすらできなかった。けれども、いま、振りかえって思えばわかる。あの頃のコロナウイルスは、どんなに感染予防に尽力していても、人が密集して働いている場では、ああいう感染はどうあがいても起きてしまうのだということ。そういうことは自分たちが当事者の時気づきにくいからわからなかったけれど、ああすれば防げたのではと思うのは、完全に結果論なのだ。

 こういうコロナ禍のことは、かつてスペイン風邪が風化してしまったように、時間が経つと忘れられてしまう。こういうドラマにして後世に残すことは、間違いなく、意義のあることだと思う。このドラマが後世に残るかどうかはわからないが。インタビューを受けた職員さんは、自らクラスター感染者の一人だったことをカミングアウトした。勇気のいることだったと思う。コロナで亡くなった入居者の私物は遺族に引き取ってもらうこともできず廃棄される。亡くなったひとそれぞれに人生があった。そのことに気づいてハッとさせられた令だった。感染者の体験談。流行の中心がデルタ株からオミクロン株に変わったころ、そういう体験を語ってくれるひとが増えた気がする。報道はそれ以前からあったけれど、身近なネット仲間が感染したのもこの頃だった。オミクロン株は感染力が強い代わり、症状が比較的軽かったせいもあったと思う。

 

 「女の生き方は一つじゃない」。高梨和美のセリフである。人生にはいろんな行き方があると言ったのは、松下幸之助。女の生き方も一つしかないと決めつけるのは間違っている。生き方を決めつけると、いちばん幸せに生きられる方法を自らどぶに棄てることにもなりかねない。成美も御厨庸(平原テツ)に言っていたけれど、色んな生き方があっていいんだと、男性から女性に転身した和美の口ぶりには説得力があった。彼女自身がそれを、身をもって証明していたとも言えるのだ。後悔のない人生の歩み方にもいろんな道がある。自分にいちばん生きやすくしあわせな生き方を選べばいいと、このドラマは語っていた気がする。

 

 令がメモパッドに「声」と書いた。二葉の東日本大震災のリポートで、現地の被災者の声を取材している映像をアーカイブスで見ているときだ。何かヒントを得たのが察せられた。

 電話のやりとりでこういうセリフがあった。

 「(二葉)私近々復帰するよ」

 「(令)少し前倒してもらってもいいですか。いま相談したいことがあるんです」

 「うん、何」

 「この前、クラスターを出した老人ホームに行ったんです。どういう対策をしていたか聞くために。話してくれた職員さんが、自分が感染して申し訳なかったって言ったのスルーしちゃったんですよね。でももしかして話したかったのかなって。追加取材ってあると思います? その、感染した人の体験談?」

 「あるかもね。今目にするのは感染してごめんなさい!ばっかだから」

 「そうなんです! 私、自分がいま感染したらどうなっちゃうんだろうと思って。責められるんだろうなとか、でもその前に私の体はどうなのって話じゃないですか。若くても重症化するひともいるし、後遺症だって怖いし。一人で自宅療養なんて、どんな地獄です?」

 「感染した人の体験談があれば、いざと言う時に助かるだろうね。誰かが発信してくれれば、他のひとも声を上げやすくなるし。ただリスクは高いよ。」

 「声を届けたいって、思ったんです。一人一人の声を、ちゃんと届けたいって思ったんです。……企画倒れですかね。」

 「和泉がやりたいなら頑張ってみれば? 取材してみないことには始まらないよ」

 「無駄になる可能性が高いなら頑張れないです。他のことに時間使った方がいいし。無駄になりそうだって話ですよね。」

 「和泉さ、どういうつもりで報道に来たの? 無駄かどうかなんて、後になんなきゃわかんないんだよ。無駄になるのかも知れないけど、最初から決めつけないで。とにかく散らばった情報をひたすら集めて、星座みたいにつなぎ合わせて、初めて浮かび上がるってもんでしょ。北極星だけ見てたら北斗七星に気づけないんだよ」。

 ここ。ドラマを代表するセリフだと思った。報道に携わる者の金言のように感じた。

 こんなセリフのやり取りもあった。

 「(令)真野さん、警視庁キャップになるんですよね。近々とか言ってないで早く出てきてくださいよ。みんな知ってますよ。部長も局長もみんなです」

 「(二葉)もう、平尾さん!」

 「でも正しいと思います。子育てしながらキャップやるなんて、真野さん一人が頑張っても無理ですから。っていうか、平尾さん、みんなを巻きこもうとしてるんじゃないですかね。真野さんが諦めても、平尾さんは諦めてくれないと思います。私も警視庁やりたいんで、よろしくお願いします」。

 このセリフのやり取り、成美をリーダーにした報道局社会部の結束の強さをまざまざと映し出した、素晴らしいセリフになっていた。成美の、上司としての器の大きさ、女性たちを中心にした報道局社会部のチームワークの良さが如実にあらわれている印象的な場面になっていた。ドラマのテーマを言葉で説明するではなく、行動であらわしながら、あとでセリフをもって補足するというやり方で仕上げていた。とても印象的ないい場面になっていた。

 自信喪失状態だった令だったけれど、職員さんのインタビューがトレンドにランキングして、〈闇落ち〉から復活。少し自信がついたようだ。

 ラスト。令は社会部が強盗事件を追う中、ひとりで別行動し、またも起きた赤ちゃん遺棄致死事件の容疑者の恋人にアポが取れたと言って、インタビューに臨んだ。彼女はこの一連の事件に特別な思いがあり、本当のところを知りたかったのだ。何が明らかになったか、ドラマはもう語らないが、演出は暗に令のリポートが、彼女のジャーナリストとしての独り立ちを意味することを、示唆しているように感じられた。この令の、初めての特集がオンエアーされるところでドラマは終わる。この物語、全体的にテンポがよく、語り口、展開が見ていて気持ちがいい。つらいシーンも多かったのに、小気味よさを感ずるのは主人公たちが、どの人物も清々しく、潔さ・凛々しさを感じられるように演じていたことに理由がある気がする。

 

 役者について。

 芳根京子。

 今回彼女の演技に於いて、特筆されるべきは、その人物:和泉令の感情の揺れが、いちばんストレートに伝わってきたことである。殊に精気の感じられない〈死んだ目〉で局の廊下をぼうっと歩んでゆく演技が、じいんと胸に沁みた。この〈死んだ目〉。まったく目力を感じないというか、逆に〈マイナスの目力〉を感ずるような凄みのある表情・目の演技に、マスク姿にもかかわらず、思わず息を飲み、圧倒された。演出的にも効果的だったし、演技も出色の出来だった。思うのだけれど、令は二葉がもしこれ以上現場に戻って来られなかったら、自滅、潰れていたと思う。ジャーナリストとして生きて行けなかったろうと思う。だから取材をつづけるうち、二葉とのやりとりを重ねてゆくうちに、報道記者として何らかの生きてゆくヒントを得、前進してゆくその過程で、さっきの死んだ目からまるで手のひらを返したように、一転、目の色・表情まで生き生きと変わってゆき、同じようにマスクをしていてもありありと、歴然と違いのわかる演技。その演技の変化の目覚ましさが鮮やかで、驚かされた。芳根京子。彼女の演技はこのドラマに於いても進化を続けているのが感じられた。

 江口のりこ。

 彼女は仕事のできる女性を演じさせると、剃刀のような切れ味鋭い演技をする。働きたくても働けない、つらい演技の連続だったが、働いているときの頼もしさはそんじょそこらの男性記者以上に冴えた女性である。警視庁クラブのキャップになるのも納得。復帰した二葉を令は、時短勤務と言いながら時間外労働めっちゃして、それ、ズル働きですからねと、面と向って言ったけれど、令は二葉の背中を見て着実に育っている。令も警視庁クラブで働きたいというセリフがちらっとあったが、令のよき先輩として、良きアドバイザーとなってくれていた。

 木村佳乃。

 警視庁記者クラブ・キャップ:平尾成美を演じた。令や二葉の信頼のおける上司。やがて社会部長に昇進するが、キャップ時代も、部長になってからも、下手な男性の上司より頼りになるその仕事ぶりは、秋葉原の通り魔事件のときは、見ていて痛々しく感じられるようなところもあったけれど、その演技からは責任感の強さ、後輩たちが働きやすい環境をつくりたいという一念が感じられた。部下に言っていたことに、道は一つじゃない。幾つもあると言った。肝臓癌を患った御厨にもそれを言ったが、説得力あるその透明性のつよい演技は、演出にもまして胸を打つものだった。

 仲間由紀恵。

 このひとの孤軍奮闘が、いちばん痛々しくつらかった。社会部報道記者で紅一点。結婚を諦め、仕事で結果をだしても評価をされず、手柄を立てると〈女〉つかって獲ったんだろうとか、いい加減な憶測・誹謗中傷を他局・他紙の男たちから聞こえよがしに言われる。そんな目に幾度遭ったか知れない。このことは成美も言っていたが、女性報道記者は、いつもこんな陰口を言われてきた。せめて彼女に同性の優秀な相棒がいたら人生変わっていたんじゃないか。それをひりひりとしたすり傷がつめたい雨風に晒されて沁みるような、古傷に障るような、感触の演技で演じきった。間違いなくこのドラマの中心人物。オウムの教祖・松本智津夫逮捕の日、未明の光のなかに映し出された凛々しい横顔が美しかった。彼女、準主役ではなく、このドラマのもうひとりの主役だったと思う。

 企画:大井秀一・下川美奈。

 チーフ・プロデューサー:遠藤正累。

 プロデューサー:小田玲奈・長田宙・能勢荘志・平井十和子・千葉行利。

 脚本:ひかわかよ。演出:狩山俊輔。

 評価:Bプラス(☆☆☆☆)