NHKドラマ「雪国」感想 | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 川端康成原作の、有名な小説のドラマ化である。当初、NHK‐BS4K、BSプレミアムで放送された。

 

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。

 

 ドラマは有名なこの語り出しからはじまる。ファースト・シーンは雪国新潟への隧道・清水トンネルを歩んでゆく主人公・島村のうしろ姿だった。演出はこのシーンに映像的な効果を狙ったのだろう。当時、清水トンネルは全国でも一、二を争う長いトンネルだったはずである。日本の高度な土木技術を誇るトンネルの一つだった。

 次は東京の島村邸に場面は移り、島村の日常(原稿執筆の姿)がわずかながら描かれる。そこに挿入される、雪国の女の姿。その女に触れようとしたら、汽車の窓硝子に指が触れた。こういうところ描き方が巧みで、またそれが島村の空虚な心を映しているようでもあり、面白い。我に返ると彼は汽車の座席に坐っている。汽車はいま清水トンネルをくぐっているのか、外は真っ暗である。

 ものがたりは二層構造になっていて、前半は島村(高橋一生)の視点から駒子(奈緒)との出会いが語られる。島村から見ると芸者である駒子には謎が多い。腸結核に罹った許婚・行男(高良健吾)のために芸者に身を落とした駒子。冒頭シーンにある、雪国の温泉町で、行男は葉子(森田望智)に付き添われ、駅に降り立った。同じ駅で降りた島村は、行男がもう永くないことを知る。駒子は許婚であることを否定し、今際の際の行男を見舞おうともしない。描写は繊細で、脚本に冴えを感ずる。殊に駒子の台詞にそれを感じた。敢えて主語を言わず、言いぶりをぼかす言語表現が謎めいているし、脚本の面白みとなって、表出している。

 川端康成は、総ての著作を読んだわけではないが、語り口は密で、表現、言葉遣いは綺麗で奥ゆかしく、そういうところに作家の気品を感ずる。その彼の代表作であるこのドラマもその作風を踏襲した、気品あるドラマ作りができている。

 全編のナレーションが、言ってみれば〈川端調〉で、長い、長い詩の朗読を聴いているようである。駒子のことば、葉子のことば、島村のことば、それぞれが調っていて、耳に快い。また音楽が何処か不吉で、うつくしく、ドラマの悲劇的なラストを予見したようなつくりになっている。この音楽、ドラマに似合いすぎているほどであり、幾度繰りかえし観てもその美しさに魅せられる。音楽担当の三宅純というひと。名前を覚えておこうと思う。

 駒子の言動が通り一遍のものではなく、すべて裏があったことに気づかされ、愕然とするラスト近くの描写が炎のようにうつくしい。駒子の姿が哀しく、駒子の情熱が哀しい。狂気を恐れる想いが言わせた心の叫び。島村が「徒労」と云った駒子の日記や小説の雑記帳。こんな〈徒労〉に思いのたけをこめる駒子を、為す術もなく〈鏡のように映す〉空虚な島村の心。

 駒子は島村の質問には応えない。応えない代わりに謎かけの手がかりのようなものを残して去ってゆく。そして不意に、突拍子もないことを言いだす。駒子を演じた、奈緒の演技がうつくしく烈しい。そして島村を演ずる高橋一生は、ストーリィ・テラーとなりながら、この情景をありありと妖しく投影させる。

 駒子は島村に云った。

 

  「今に命まで散らすわよ」。

 

 何故、何のために死ぬと云うのだろうか。主語も述語も曖昧な、こうした謎めいた駒子の受け答えに含みがあり、このものがたりの玄妙なる味わいがある。

 駒子のことがわかりすぎるほどなのに、自分のことは何一つ駒子に伝わっていない。まるで自分がこの世にいないかのように。

 あの日、行男が帰ってきた日。彼を迎えに駅に来ていた駒子は知らなかった。行男にずっと付き添っていたひとがいたことを。葉子というひと。村にいて、いつの間にかいなくなっていたひと。葉子はずっと東京の病院にいて行男のもとで看病をしていたこと。駒子は知らなかった。「私が東京へ行き看病します」と言った時、「いけない! 行男もおまえも傷つくだけだよ!」と、師匠にそれを禁じられたのにはこういうわけがらがあったのだということを。その駅で「さっちゃん?」と葉子に言われ、「今は駒子です」とほほえんだ駒子に、矢継ぎ早に「じゃ、駒ちゃんね」と葉子はそう言って笑った。それも行男の目のまえで言われたのだ。まるで自分のことを貶められたように感じ、同時に死にたいと思ったその夜、同じ列車で島村が来てくれたことはいくらかの安堵感をもたらしたけれど、あとで葉子のことを「あれは(行男の)細君か」と無遠慮に言い放ち、彼女を問いつめたことがどれほど駒子を失望させたか。その無神経な言いぶりに、駒子がにこにこ笑って受け応えるとでも思ったのか。

 島村の洞察によって抉り出される、駒子と行男、葉子の関係。だがそこは駒子の心の傷であり、誰にも触れられたくない箇所なのに、島村は無遠慮に触れ、駒子を追いつめるかのように追究する。駒子がもとめているのはそんな不躾な、残酷な仕打ちじゃない。

 島村に惹かれながら、未だ行男への激しい慕情を内に秘めていた駒子は、自分自身の心中を島村に悟られまいとしていたこと。そういうことがあったから、駒子は彼・行男のところに行かなかったのだし、もし仮に駒子が行男の臨終を看取ったら、今度こそほんとうに自分は〈気が違って〉しまうだろうと、思っていたに違いない。一歩間違えたら断崖から落ちてしまうような場所を、歩いているような想いだったのかも知れない。彼女の言いぶりを視ていればわかる。あの言動の揺れ、あれは精神の平衡感覚を失った人の揺れようだ。もう狂気に片足踏み込んでいる。一方で、葉子が島村に近づいてゆくのを知って、彼に「殺されちゃいますよ」と言ってみたり、島村がまるで葉子に気がないのにもかかわらず、「貴方、あの娘が欲しいの?」と言ってみたり、生きるの死ぬのという烈しい言葉を彼に投げ返しもしたこと。

 駒子と葉子の関係性について、島村がえぐるようなことを言った直後に、駒子のこういうセリフがある。

 

 「初めて会った時、あんた、なんて嫌な人だろうと思ったわ。あんな失礼なこと、言う人ないわ。それを私、今まで黙ってたの。分かる? 女にこんなこと言わせるようになったらおしまいじゃないの」。

 

 一瞬、ぞっとする思いがした。この辺りの愛憎の描写。ほとんど戦慄的なレベルである。

 その間もなく後に起きた繭倉の火事だった。その前に葉子が駒子をこの繭倉でやる映画に誘っていたこと。そのことも何か裏があるように感じられ、火事は葉子の放火なのではないかのような含みさえもたせている。小説はこの火事の場面で終わるが、ドラマ後半は駒子の日記の記述から、駒子の視点で描かれる。この二層構造が、物語のもつ底知れない魅力を醸し出してゆく。目の前で死んでゆく葉子のありさまから過去にフィードバックされ、駒子の貧しい生い立ちや行男との恋、行男が見送ってくれた駅の情景。ここから駒子の日記がはじまるだけに、島村にはいままで語らなかった、行男への想いがあらわになる。芸者になってそう時をおかずに受けだされ、旦那持ちになって間もなく1年半で旦那に死なれた駒子は、ふるさと雪国に帰る。

 そのあと、行男が腸結核になった知らせが届き、宴会で安瓶を飲み、狂ったように酔った。あの、島村のところへ酔いつぶれて行ったあの晩のことには、こんな秘密があったのだ。あの時計を見、時計職人になろうとした行男を思った。文字盤が見えないわけではなかったのだ。好きな男の名前を書きつらねて狂ったあの日。どんなに働いたところで行男の病は治らない。

 行男の最期を看取らなかった駒子。それでもどこかで、島村さんに日記を読んで欲しいと思っている。徒労だろうか。私はそうは思わない、と駒子は云った。「ひとは、ひとを愛しすぎると」。と言って、あとを言わなかった駒子。こういう含みを残した脚本・演出に、大人の恋愛ドラマの機微を感ずる。

 「この子、気が違うわ! 気が違うわ!」と叫んだ駒子。気が違ったのは葉子ではなく、駒子自身だったのかも知れない。

 

  国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

 と、再び冒頭と同じ言葉が甦った。ただ、冒頭では「国境」を〈こっきょう〉と読んでいたが、ラストシーンでは〈くにざかい〉となっていた。読み間違いか意図的なのか判然としない。おそらく意図的にだろう。そこは清水トンネルで、島村は汽車に乗ってここを通ったはずであるが、ドラマでは、歩いてこのトンネルを抜けたことになっている。トンネルの中に響きわたる、うつろな靴音。空しいラストシーンであった。

 あれから数限りなく繰り返し観たけれど、作品にアラは見つからない。こんな優れたTVドラマは久々に見た気がする。滅多に出会えない、いい作品だと思った。

 制作統括:柴田直之・西村崇・大谷直哉。

 脚本:藤本有紀。音楽:三宅純。撮影:板倉陽子。

 演出:渡辺一貴。

 評価:A(☆☆☆☆☆)。