内田百閒の朝夕(最後のところ、加筆しました) | 悠志のブログ

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 男性は普通自分で髭を剃る。だが老舗の造り酒屋の一人息子、内田百閒は坊ちゃん育ち。自分で剃らない。身なりのきちんとしたのが好きな百閒の事である。当時は安全剃刀の時代であったか。あれなら誰でも普通に髭が剃れる。だが不器用な人はどうしても顔のどこかを切ってしまう。この血、なかなか止まってくれない。どうするか。塵紙を小さく千切り、傷に当てるのだ。それで血はたちどころに止まる。だがその顔がどうにも貧乏くさい。百閒はそれを嫌ったのかも知れない。剃る時は床屋に行く。逆に理髪師に百閒邸に来てもらうこともあったのではないかと思われる。剃らない時は家にいて無精髭のまま。一向に身なりを気にしない。著者近影に度々無精髭の顔を撮影されている。

 晩年の百閒は小説新潮の仕事を月一本だけ受けていた。二年に一冊ぐらいのペースでそれが本になる。収入は限られていたはずだが、晩酌にシャンパン、ヱビスビール、清酒月桂冠等を好み(戦後はそれに白鶴も飲んでいたという、うろ覚えというか、不確かな記憶がある)、当時としては色んな肴を食していた。百閒が晩酌に絶対飲まなかったものがある。蒸留酒である。普段の酒に醸造酒を選んだ百閒。彼は早くから、醸造酒と蒸留酒の違いについて自覚的で、一緒に飲むことを嫌った。酔いの質が全く異なるからである。それゆえどんなに手に入り易くとも百閒は決して焼酎を飲まなかった(ただし、戦後間もなくの頃は、やむなく焼酎を飲んだかも知れない、そういう可能性はある。猫を飼っていた頃も、寝酒にウィスキーを飲んでいたようだから、まったく蒸留酒を飲まなかった、ということは言えない)。

 ところでシャンパンと言えば百閒の随筆に「おからでシャムパン」がある。シャンパンの肴におからを食べる百閒。匙の背中で押さえつけて固い山にし、レモン汁をかけ、箸でそっと食べる。零さぬように食べないと長者になれぬと言うが、どうしても少しは零れる。その所為か、未だにお金に困る。そんな風に百閒は書いている。シャンパンは高いがおからは安い。おからは安いがレモンは高い。随筆を読むと、鰻、鮨の他に、蓴菜が食卓にあったり、チーズに海苔を巻いて食べたり。日々の晩餐が楽しみだった百閒。やり繰りする妻の苦労が偲ばれる。

 晩年の百閒は寝坊で、昼過ぎにならないと起きない。彼の日記を読むと毎日のように二度寝をしている。起きぬけには何も食べない。大正期は、盛りやかけなどの蕎麦を取っていたが、その後何も食べなくなった。日が暮れると書斎にこもり、執筆。百閒は尋常ならざる遅筆で、一日二、三行しか書かないこともあったなどとまことしやかに言われているが、どうやらこれは出版社へのポーズだったようだ。丹念に日記を読めばわかる。書いた枚数が毎日記してあり、二、三行書いて終りなどという記述はどこにも無い。晩餐の始まるのは遅く、また、彼の晩酌は長い。執筆が長引くと晩餐が午前になる事もあり、それが終るのが明け方という事も度々あった。あんまり夜ふかしは妻が気の毒。お銚子が大概になったら、妻を寝かせて後は一人で飲む事もよくあったようだ。昭和30年代の終りには就寝が朝の七時なんて記述もある。もうこうなると常人の生活ではない。だが、妻がこのことに苦言を呈するようでは彼の作家生活は成立しない。もともと百閒の世話係が出発点であった彼の妻は、説教が出来る立場にはない。

 百閒の晩年の住まいとなった、居間・寝所・書斎がそれぞれ三畳間の、人呼んで「三畳御殿(もっとも、書斎が三畳では書籍の置き場にも困るので、のちに別棟〈禁客寺〉を建て、そこで執筆を行ったようだ)」。来客を極度に嫌った百閒である。お昼過ぎの寝起きのところに客に来られても応対に困るし、夕方から始まる執筆作業のところに来られても迷惑。それゆえ門前には「日没閉門」の張り紙をした。

 百閒の内縁の妻だった、佐藤こひさん。芸妓出身で、美しいひとだったという。百閒の身辺の世話をするようになったのは、昭和初期。まだ百閒が法政大学の独逸語教授だった時代。その頃こひさんは二十代前半。航空研究会の飛行練習(立川か、羽田の飛行場で行うのが通例であった)の時は、その日の未明二時ごろ起き、ブリキの大きな弁当箱に、大人の拳ほどもあろうかという大きな鰹節の猫飯と、油揚げを炊きこんだ狐飯のおにぎりを持って行った。練習が一通り終わると、飛行場の芝に坐って、包みをあけた。学生たちは握り飯を両手に持ってうまい、うまいと頬張った。昼食が終わると、癇性の百閒のことである、ごみ一つ残さぬよう、芝をきれいにさせて飛行場を後にした。飛行場の管理人に「法政大学の学生さんはお行儀が良くて感心だ」と褒められた。酒が入らない時の百閒は几帳面で礼儀正しかったのだ。