或る著名人ニューヨーク州最高裁判事の失踪(未解決事件) | 悠志のブログ

悠志のブログ

ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 1930年8月6日の夕刻のことであった。褐色のタブルのスーツに立ち襟のシャツ、足に灰色のスパッツを付けた背の高い恰幅のいい紳士がニュー・ヨークの西45番街のあるレストランから出てきた。彼の名はジョゼフ・フォース・クレーター。ニュー・ヨーク州最高裁判所判事。当時41歳であった。彼は街でも著名な人であった。その彼が二人の連れに手を振って、タクシーに乗り込んだ。以来、彼の姿を見たり声を聞いたりしたものは誰もいない。彼はいずこかへ跡形もなく消えてしまったのである。

 ニュー・ヨーク市警に行方不明のかの判事を見た、という情報が持ち込まれなかった年は、一年もないほどであった。このような多数の目撃情報や、大規模な捜索が行われたにもかかわらず、クレーター判事は未だにアメリカでもっとも名を知られた失踪者のままでいる。

 この事件の特異な点は、判事その人と、その生活が、一般によく知られていたことである。また彼は衆人に囲まれていても人目を惹くような容姿の持ち主であった。身長は180cmを超え、体重は80kgあったが、歩きぶりは小股で、幾分勿体ぶっていた。

 クレーター判事は、1889年1月5日、ペンシルヴェニア州イーストンの生まれ。ラファイエット・カレッジとコロンビア大学法学部を出ていた。1913年ニュー・ヨークで弁護士を開業した。野心に燃え、精力的な彼は政界に首を突っ込み、忽ちマンハッタン民主党クラブの会長になった。ニュー・ヨーク市のタマニー派民主党員のリーダーたちと親密だったので、1930年4月ニュー・ヨーク州最高裁判所判事に任命された。

 クレーター判事は私生活でも、外見的には同様に恵まれていたようである。1916年、ステラ・ホイーラーという名の女性の離婚訴訟に弁護士として雇われ、彼女と恋に落ちた。翌年彼女の離婚が成立すると、クレーターはステラを妻に迎えた。

 1930年の夏、クレーター夫妻はメーン州ベルグレード湖畔の別荘で休暇を過ごしていた。8月3日、判事はニュー・ヨークからの電話を受け、数日そこへ行って来なくてはならないと妻に告げた。どんな用事かは言わなかった。翌4日、彼は5番街の自宅アパートに着いたが、その日も、その翌日も特に変わったことは何もなかった。しかし、8月6日の朝、彼は2時間にわたって裁判所の事務室で調書に読みふけり、助手のジョゼフ・マーラに総額5150ドルの小切手を換金させにやった。正午に彼は書類カバンを2個、マーラとともに自宅に運び、その後助手を家に帰した。

 夕刻、クレーター判事はブロードウェーの出し物を扱う切符販売店へ行き、ベラスコ劇場の新作コメディ「ダンシング・パートナーズ」の当日券を1枚買った。次に西45番街のビル・ハース軽食堂へ行き、二人の友人、つまり同僚の弁護士と踊り子に出逢って共に夕食をとった。弁護士はのちに、その時のクレーターは上機嫌で、悩みを抱えている様子はまったく見られなかったと証言した。判事が友人たちに別れを言い、タクシーを呼びとめたのは午後9時10分。コメディの幕はとっくに上がっている時刻であった。そして前述の通り、彼のその後の消息はまったく判っていない。

 皮肉なことに、クレーター判事の失踪について即時の反応は無かった。彼がメーン州の別荘を出てから10日目に、クレーター夫人は連絡のまったくないことを不審に思い、ようやくニュー・ヨークの友人に夫の消息を問い合わせた。誰もが、心配する事はない、判事はそのうち帰って来ると返事した。

 だが8月25日の公判開始に、彼は出廷しなかった。同僚の判事たちはその時初めて異状に気づき、私的な捜索を試みた。だが、芳しい結果はまったく出なかった。何も判らなかったのである。警察に捜索願が出されたのは、失踪からちょうど4週間後の9月3日であった。

 翌日、判事の失踪がついにニュー・ヨーク中の新聞のトップ記事になった。警察は彼の貴重品保管庫が空になり、件の事務室の書類カバン2個が忽然と消えているのを発見した。彼の姿を見たという情報がその月のうちに数千ほども警察当局に届いたが、すべて誤報であった。

 大陪審は10月に事件の調査を始め、証人95人を喚問し、975頁に及ぶ調書を取って、次のように結論した。

 「クレーター判事の生死に関して、あるいは彼が自らの意志で姿を消したのか、記憶喪失症のごとき病気にかかったのか、もしくはある種の犯罪の犠牲者になったのかに関して、何らかの意見を表明するには、証拠不十分である」。

 1931年1月、クレーター夫人はニュー・ヨークのアパートに戻って、事務机に抽斗から数枚の小切手や公債、国債、生命保険証書3枚、それにクレーター判事自身のノートを見つけ出した。ノートには彼の資産が一つずつ列記され、最後に一行だけ、胸中を洩らす言葉があった。「もううんざりだよ。ジョー」

 

 クレーター判事の失踪の理由はこれまでさまざまに語られてきた。クレーター夫人と親友たちは、彼が汚い不正の罠に落ちたと考えた。夫人は「政治と関係のある何か忌まわしいことの為に彼は暗殺されたのです」と語った。裁判官に任命された見返りに、汚職と腐敗でよく知られていたタマニー派の摘発に手心を加える約束を夫が守らなかったから、消されたのだと夫人は暗にほのめかしたのである。また彼女は、ある企業がわずか7万5000ドルで買収した後、285万ドルで市に転売したマンハッタンのホテルの管財人に、判事がなっていたことも、暗殺に関係があるかもしれないと語った。

 クレーター夫人は次のように語った。「ジョー・クレーターは誰であれ、敵から逃げ出すような人ではありませんでした。問題には常に正面から立ち向かってゆきました」。自らの意志で失踪したという説を一蹴したわけである。

 彼女は1937年に、夫の保険証書の倍額支払いを求めて、生命保険会社3社を相手どって訴訟を起こした。法廷闘争に伴って、彼女の弁護士、イームル・K・エリスも殺人説を主張したが、彼の主張は夫人の見解と異なっていた。

 クレーター判事はブロードウェーの踊り子に恐喝されており、彼女に支払うために5150ドルの小切手を換金した。彼女がさらに金を要求した時、クレーターは拒絶し、踊り子のヒモのやくざが恐らくは誤って彼を殺した、というのがエリスの主張であった。しかし、この弁護士の主張には法廷を納得させるに足る証拠が欠けていたので、倍額支払いは拒否された。

 1939年6月6日、クレーター判事の死が法律的に宣告された。しかし、彼が現れたという報告はその後も、稀に伝えられた。警察の捜査も公式には打ち切られていないという。

 失踪から90年以上が経過した現在も、クレーター判事は未だに尋ね人のままなのである。

参考文献:「世界不思議物語 Strange Stories, Amazing Facts」(リーダーズ・ダイジェスト社刊)