有邨架純の撮休(感想まとめ) | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 

 そもそもが僕は、「撮休」という言葉を知らなかった。何でもスケジュールにあった映画やドラマの撮影に支障が生じて、キャンセル(あるいは延期)になったために俳優に与えられる臨時の休日のことだという。前々から決まっているオフとは異なるようだ。それゆえだろう。「ある日突然いつもあたふた忙しい売れっ子俳優に、休日が与えられたら、彼(彼女)はどんなことをしてその休日を過ごすだろう」。ドラマの発想としては面白い。これを各分野の著名な演出家・監督が撮る。それも主演は有村架純だというのだから、何か面白いものができるのではないか。と、思った。さらに演出家の中に、是枝裕和、横浜聡子の名もあった。他にも敏腕で知られたCM演出家の名もあり、どんなものができるかワクワクして待っていた。今回DVD化されてそれがやっと観られた。毎回、冒頭の有村架純のアンニュイな表情が、何か言いたげ。それはともかく、撮休の理由が、毎話、話が進むにつれ、おかしなものになってゆくのも、制作者の遊び心が感じられ、興味深い。

 批判的なことも書いてしまうかも知れないが、それでも建設的なことを書くよう、心掛けたい。

 

 第一話「ただいまの後に(比嘉さくら脚本・是枝裕和演出)」

 前半はパッとしないなと思っていたが、後半にかけて是枝らしい、色濃い家族のドラマになっていた。

 是枝裕和と言えば、即興演出。役者を自由に演じさせ、ハプニングまで劇の一部にしてしまう名人だが、アドリブが苦手という有村をどう演じさせるか、興味津々で観ていた。今回は脚本も別の人が書いているので、自由な演出は控えめになっているようだった。

 いつになく大人しい有村架純の様子が、却って説得力を感じた。劇中の人物である架純にとって、そうしていることがいちばん自然なのだ。それを知っているから母もそのようにふるまう。母親役の風吹ジュンは上手い役者だが、それにつられてか、有村の演技も乗ってくる。俳優同士の呼吸が次第に化学変化を起こすような、そんな面白み。抑揚を敢えて抑えた演技をさせていることが、この親子の親子らしい「絆」を感じさせた。劇中でかかる挿入歌も、物語の世界に付かず離れず。微妙な関係性で存在していた。

 郷里、伊丹。有村は母にお金を入れているだろうから、母親も豪邸でなくともそれなりの家に住んでいるだろう。何度も言うようだが、風吹ジュンの〈含み〉を感ずる演技が味わい深い。料理も面白い。丸いお餅を切り、干瓢を揉み、ロールキャベツならぬ「ロール白菜」? 母親の味なのだろう、有村と母の〈あ・うん〉の呼吸に似た、密な親子関係が丁寧に描かれる。

 後半にかかると、もう一人の人物、誠(満島真之介)が有村の家に訪れる。母は最初言葉を濁すが、架純の腹違いの兄という。架純はいままでそのことをずっと母が黙っていたことで、心中穏やかでない。誠を演ずる満島真之介の、目立たないが、抑えた演技が沁みる。風吹ジュンの演技と響き合うものを感ずるのだ。

 共演の俳優に電話をかけた。すると幼いこどもが出た。この子が風邪を引いて、今回の撮休があったことを知った。そのことに驚いて電話を切ってしまった架純。

 母は和菓子屋の経営が上手く行かないと相談に来る、この青年に、金を渡しているようだった。そういうことを自分に黙っていることに苛立つものを感じた架純。誠が食べていたお茶碗。死んだお父さんのだった。お箸も。誠のことをはぐらかす母に、あたる架純。けれども母は応えない。一語一語の台詞に気づきにくいが、光るものを感じた。親子の血の通ったやりとりがそこにあった。血の通ったというか、心と心のぶつかり合う一瞬があった。

 「後ろめたいことを言う時、お母さんって丁寧語になるよね」

 「あんたは、そんなことを言うために帰ってきたの?」

 この場面。風吹ジュンと有村架純の視線に火花が散った。刹那の間に場面が氷りつき、緊迫感がみなぎった。

 お節介だと言うが、夫を、元の奥さんから奪ってしまった罪滅ぼし?のように、彼の家に返しているのだという。そんなむかしにそのようなことがあったことを、架純は今にして知らされたのだった。母の過去。その母の人間像に改めて気づかされた。最後は夜の神社にお参りして、肝心なことを何も言わない架純だった。

 このドラマでの有村架純は、水のような演技をしていた。どんな色にも染まりそうでいて染まらない透明な水。彼女の演技はナチュラルで、上手いか下手かわからないところがあるが、それでいい。あと身に着けるとすれば、ひとに感銘を与える演技とは何なのか。そのことを根本から考えてみてほしい。

 有村さんへ。あなたが一生女優を続けてゆきたいのであれば、言っておきたいことがあります。俳優は性別を問わずして、40代から50代にかけて転機がやってきます。若い20代30代にかけての仕事で、どれだけ苦労したか、何を学んだかが問われます。常日頃から何となくいい気分で、大した努力もせず、若いころを過ごしてしまったひとには後で痛烈なツケが廻ってきます。そういう俳優は40代から50代にかけてガタっと、仕事のオファーが来なくなります。その時になって一生懸命勉強しても、一度来なくなったら仕事はもうそれっきりです。僕たち観客はそういう俳優を嫌というほど見てきて知っています。そういうひとはもう、名前も忘却の彼方です。思いだすこともありません。そうならないために俳優は買ってでもつらい研鑽を積み、少しでもいい俳優になろうと努力するのです。このドラマ第1話の風吹ジュンさんはそういう峠を乗りこえ、俳優をやっているひとです。彼女のようになれれば御の字です。もう一つは常に健康でいること。病気にならないこと。病は役者人生における最大の敵です。常に健康でいてください。僕は有村さんがたとえ結婚しても、俳優を続ける限り応援しています。頑張ってください。

 

 第二話「女ともだち(ペヤンヌマキ脚本・今泉力哉演出)」

 腹の立つ話であった。女友だち、優子(伊藤沙莉)とその彼(若葉竜也)と鍋を囲むことになった架純。その彼の言いぶりが腹立たしい。大体女性を、〈かわいい〉か〈かわいくない〉かの価値観だけでひとくくりにすること自体、女性に対する性差別であり、失礼であることを、このバカ男はわかっていない。仕事ができるからかわいくないだの、男を頼ってくれる女はかわいいだの、これを男に置き換えると、おかしなことになる。「仕事ができる男はキザでカッコ悪い(こんなことを言われたら、男は立つ瀬がない)」。「女をいつも頼ってくる男は可愛い(実際にはこんな男、同性からも異性からも嫌われるだろう)」。もしそういう価値観が横行したら、どんなことになるか。現代女性の身に起きている現実とは、こういう性差別なのだ。女性とはこのような差別社会のもとで生きてきたのだし、生きているのだ。理不尽もいいとこではないか。僕の言いたいこともここにある。

 つまりだ。こういう〈かわいい〉〈かわいくない〉という、偏見に満ちた価値観を女性に押しつけ、それでも足りず、何でも「わかったふり」で女性を口説く道具にする。ふざけるな。実際にはただ調子を合わせているだけなので、見ている方としては我慢がならない。不快指数200パーセントである。

 恋愛に関して、男女は平等であるべきだし、男は女を守るべきとか、女は男に守られるべきとか、男についてゆくとか従うなどという下らぬことは考える必要はないし、考えるべきではないとぼくは思う。ただ、男女は同じものを見て考えを共有し、わかりあう努力をし、同じ方向へ進んでゆくような関係が望ましいんじゃないか。その結果、仮に相手をわかることができなくとも、相手のことのいろいろを知ることだけでもいいと思う。つまり立ち位置と向きあうものが同じで、立場が対等ならいいし、互いにまもりあうのならいい。ついてゆくというより、同じ希望をもっていきるのがいちばんいい。

 有村と伊藤沙莉の部屋での息の合った演技が心地よいので、鍋を囲むシーンの不協和音は苦痛でしかなかった。

 顔のいい男と結婚していいことには、美形のこどもが生まれる可能性が高いことが挙げられるだろう。だが、それ以外に何かあるだろうか。育児や家事を女に押しつけ、自分は浮気に興じている不実な男でも、顔がいいから許すなんて言う女がいるかどうか。疑問だ。

 

 第三話「人間ドック(砂田麻美脚本・是枝裕和演出)」

 有村架純が人間ドックを受ける話である。自分の知らない自分のからだの中。そんなもの、赤の他人(検査員や看護師たち)には見られたくもないことである。だが、人間ドックにプライバシーはない。日村(リリー・フランキー)という映画監督が出てくる。誰がモデルかわからないが、「そして父になる」を思わせる赤ちゃん取り違えの話をしているので、是枝本人の可能性が高いのかな、と思った。

 腹部のエコーの場面。古い知り合い(それも相当微妙な)が担当検査員(近藤:笠松将)だとわかり、そこから話がよりセンシティヴな方へ徐々に導かれてゆく。

 エコーの検査は腹部に透明なジェル状のものを塗り、それをセンサーで押し広げてゆく。台詞があったりなかったりするが、有村架純のからだを、言ってみれば舐めるように撮り、近藤の手のセンサーが有村をやさしく愛撫するように、彼女の腹部を上下する。臍(へそ)の上下が超ドアップで延々と、延々と、映される。その上下運動があたかもセックスをしている女の肉体の接写のように、錯覚させられる。この映像表現によってそんな印象まで抱かされてしまうのだ。そこから否応なく感じられるのは、濃密なエロティシズムである。とうとう有村架純もこんなに官能的なドラマを演じられるようになったか(この場面、腹部だけを映しているので、演技もへったくれもないが、ふたりの台詞の応酬からそれを感ずるのだ)。このエロいシーンによって、何が暗示されるのかというと、近藤と架純の過去がどの程度親密な仲だったか、この一見ストーリィ展開的に本筋から逸脱しかけた場面によって、うすうすながら伝わってくる。もちろん、台詞にはそれらしき言葉がたとえなくとも、映像がそれを雄弁に物語っているような、勇み足的解釈をも可能にさせる。この興味深い是枝演出。そこに突きぬけた映像表現を感じた。優れた映像作家に是非とも必要なのは、この、突きぬけた演出であり、ありきたりの表現の訴え方で満足するような演出では、ワンランク上の作品には到底できない。是枝裕和の演出術は、この難題を無理なくクリアしている。思わずうならされた。

 思わずキスを交わしそうになった、有村と近藤のやり取り。あとで有村は近藤がここの病院の検査員をしていることを理由に、人間ドックを受けに来たのだということが、ナースたちの会話で明らかになる。少し億劫そうに受け答えをする近藤の態度。話の内容からして、近藤は有村の元カレだったのだろうか。そんなことを嫌でも思わずにはいられなくなる。

 大女優からのアドバイスがモノローグで有村の口から語られるのが印象的。それと検査がすべて終わった後、病院で評判のローストビーフをもぐもぐしながら見るエコーの写真の裏に「要経過観察・年に一度は検診を」と書いてあった。思わずにんまりする有村。彼の字だ。それは恋のお誘いのようにも、そうでないようにも思えた。

 

 第四話「死ぬほど寝てやろう(篠原誠脚本・山岸聖太演出)」

 よくある夢落ちのドラマ。夢落ち的なものというとぼくはテリー・ギリアムの「未来世紀ブラジル」を思い出す(もう30年も前に一度見ただけなので、ほんとうに夢落ちだったか憶えていない。けれど奇想天外な作品の最右翼にある映画であることは保証できる)。

 高級マンションのはずなのだが、部屋の間取りとか、部屋の狭さを見ても高級感に乏しい、有村の部屋が印象的。

 夢のなかで夢を見る。これはよくあるが、終盤のサスペンス演出は思わず息を呑んだ。自覚してはいるが引きこまれた。最後の最後の、まだ終わらないエンディングもいい。

 第四話での有村は、相当変てこな女の子。オフの日の夢の見方まで、壁一枚分棚にびっしりパターンをつくり、夢を操作する。恋をしたくてもできない有名女優のジレンマみたいなものを感じたが、これはフィクションであり、有村のプライバシーとは関係ない。わかっていながら引きこまれる演出がはまる。面白い。柳楽優弥のほんのちょっとだけずれた演技が妙に可笑しい。

 

 第五話「ふた(ふじきみつ彦脚本・横浜聡子演出)」

 話の筋としては、要するに「瓶詰のジャムの蓋が開かない」というだけの話である。これだけをタネに一本撮ってしまうんだから、やる方もやる方である。

 最初は蓋開けを楽しんでいる風だった有村だが、叩いてもゴム手袋でも、あっためても一向に開かない。電話をかけた。ジャムをくれた先輩女優(吉田羊さんのようである)が電話の相手。だがそう言われても、電話の相手も応えようがない様子。朝食に食べるつもりが、全然開かずランチタイムになってしまう。この場面の有村のあどけないような、おちゃめなようなフタとの悪戦苦闘が結構な見ものである。ふたが開かないからと言って、トーストを何もつけずに食べる有村。自棄(やけ)になって外出。巷のひとに明けてもらおうと言うのだ。この場面での有村の行動が面白い。ヒマそうなコンビニを物色。とある地味なコンビニの、店員(なぜか外国人)に開けてもらおうとして、店の商品と勘違いされレジに打たれかけてしまったり、仕方なく公園へ行き、むかついて池に投げてしまったり、それを清掃の小父さんに頼んで取り戻してもらったり、通りすがりの中学生にまで頼んだり。ところどころ意味不明な行動を起こしたり、挙動不審になったり。その有村の行動に飽くなき興味を感ずるというか。必死に開けようとすればするほど、笑いのボルテージは上がってゆく。でも、こういう瓶詰って力任せに開けようとするより、ほんのちょっとしたタイミングかコツで開けられるもの。中学生のこどもたちの仲違いのとばっちりで、落とした拍子に(なのか?)開いてしまった瓶。そのジャムを架純はどういう腹づもりでか、彼ら中学生にあげてしまう。

 最初は一日の始まりの些事に過ぎなかったことが、やがてその日をやり過ごすための〈目的〉になってゆく。その過程を横浜聡子は丹念に撮っている。一日の目的が蓋開けになってしまっているので、中身を食べるところまで行けず、開けてしまったことで、もう、何かをやり遂げた〈達成感〉だけでキャパオーバーになってしまい、中身を食べずにおしまいにしてしまうあたり、心理学の実験を見ているようで可笑しい。

 興味深い作だが、作品の出来としてはイマイチ。というより、どこか期待が外れてしまった印象だが、何がいけなかったのだろう。話はおもしろいのだ。有村の演技も悪くない。だとすると話の組み立て方だろうか。導入部から観客を「あっ」と言わせるような場面をつくり、もっと演出のテンポをよくすれば、かなりいいものになったのではないか。この脚本、横浜聡子自身に書いてもらったらどうなっていただろう。きっとジェットコースターに乗ったような、テンポのいい喜劇を作ってくれたに違いないと僕は思う。

 

 第六話「好きだから不安(今泉力哉脚本・演出)」

 今回のゲストの徳永えり。有村と同じFLaMmeの女優で先輩である。主演を務めることもあるが、普段はもっぱら脇役で光る演技をしている。うまい女優さんである。このドラマでもゲストとして光る演技をしている。本題に入る。この話での有村には恋人(渡辺大知)がいる。だが彼のところへ元カノの結婚式の招待状が来ていたことで雰囲気は一変する。

 「有村架純の撮休」で2度目の登場となる今泉力哉だが、今回は脚本も兼任。会話だけでストーリィが進んでゆく演出を行っている。その会話の重さが、他のドラマとは異なっている。こういう会話が深刻な方へ深刻な方へ進んでゆく演出法って、古くはイングマール・ベルイマンもスタンリー・キューブリックも得意にしていた。ちょっとそれを連想させるような話のこじれ方である。こういうドラマツルギー、演ずる方にももちろん負担がかかる。熱演を求められるのであって、ドラマに力を注ぎたいと思っている向上心のある俳優には、願ってもないドラマであろう。この話の綾、持って行き方、脚本が良く描けている。ふいにおもったのだがこのドラマ、場面が主に二つしかないので、舞台劇にすると面白いかも知れないと思う。こういうドラマならカメラを振りまわす必要もないし、カメラ据え置きのままワンシーン・ワンカットでも相当密度の濃いドラマになったはずだ。

 架純と彼、ふたりのこの重苦しい空気が一本の電話によって、場所を変えて一転する。そこは彼の元カノ育子(徳永えり)が入院している病院。徳永えりの一歩引いた演技が印象的。普段から振り幅の大きい演技をする女優で、有村の演技とはある意味対照的。育子が結局愛のキューピッド役を演ずることになるが、凝り固まった空気が、徳永の演技で徐々にほぐれてゆく。

 

 第七話「母になる(仮)(津野愛脚本・演出)」

 撮休の日も、ひとり台詞の稽古をしていると、幼い女の子が「おうちの鍵忘れちゃったの。トイレ貸して」と部屋に入ってきた。

 今回は、何処の子ともわからない女の子の遊び相手になってあげる話である。この子。女優の有村より演技がうまい。徐々に女の子の術中にはまり、この子、心(ピュア)ちゃんの遊び相手をする破目に。ゾンビごっこにはじまり、お芝居ごっこへつながって、猫の目のように次々に変わってゆく〈ごっこ〉遊び。

 ある時、はずみのように、

 「お母さんが帰って来なかったら私のお母さんになってくれる?」と心が言った。

 あとで冗談だと、心は言うが、本心に聞こえた。嘘つきだが、つくのは罪のない嘘ばかり。この子が咲くよと言えば、冬なのに夕顔の花が咲くし、聞こえると言えばミンミンゼミだって鳴く。不思議な子だ。

 この(仮)という文字も含めて、タイトルなのだと、観終わってわかった。

 

 第八話「バッティングセンターで待ちわびるのは(三浦直之脚本・山岸聖太演出)」

 待ちに待てども来ぬ脚本を待ちきれず、いらついた末に、架純は外出。その日はクリスマス・イヴ。飾り付けはしてあっても、イヴのムードの全くないバッティング・センター。誰ひとりとして客らしい人影がない。そこに目をつけた架純。バッターボックスに入るものの、「手打ちになっているし、ボールをよく見ていない」。……などと、いちいちバッティング指導する二郎(前野健太)という中年男に会う。来る前に振ったって空振りするだけだ。よく引きつけて。一度当てた架純は次から次へとヒット連発。球筋が見えてきたのだ。指導がよかったのだろうか。

 それはともかく、二郎には待ち人がいる。素敵な女性が火曜日にはやってきて、いつもバレンティンばりのスウィングで空振り三振して、帰ってゆく。その振りに一目惚れしたのだ。その人に告る。そのために待ちつづけているという。話の流れで、二郎がバッターボックスに入ることに。だが見送るばかりで一度も振らない。いまのはボール球だとか、タイミングが合わないとか、弁解するばかりで振ろうともしない。いいか。御託ならべてないで振れ。有村の名?アドバイスが実り、二郎のバットから快音が響いた。センター・バックスクリーンへ飛び込む特大ホームラン。1985年阪神対巨人戦。タイガースのバース・掛布・岡田のバックスクリーン三連発を思い出した。

 雪が降りはじめた。二郎が言った言葉。「野球とは待つスポーツだ」。待ちつづける二郎を見て、遅れている脚本を待とうという気になる架純。待ち人らしき若い女性がバッティング・センターに入ってゆくところでドラマは終わる。二郎は告白できただろうか。その場を見とどけることなく立ち去る架純だった。

 話の作りとしては単純だが、話の持って行き方が面白い。接ぎ穂が面白いのだ。アドバイス通りにやって、どんどん良くなってゆく有村架純のバッティングと、投球を見送りつづけて言い訳しかしない二郎の対比がおもしろいし、二郎の打席で逆転するふたりの立場。その瞬間の可笑しさもよかった。

 

 総括的感想。

 演出家によって、出来不出来の差が激しいと思った。一番いいなと思ったのは、やはり是枝裕和の第一話、第三話。特に人間ドックは白眉だった。今泉力哉の脚本・演出の第六話「好きだから不安」。あと、第四話「死ぬほど寝てやろう」の、後半へ行くにしたがってだんだんホラーになってゆく演出も面白かった。

 ただ、「スターの私生活を覗く」という興味本位で作られた、このようなドラマは、スター本人だと世間のひとが気づいてしまう場面に至ると、途端につまらなくなる。去ってから彼女と分る。その方が断然面白い。スターの生活に興味津々な観客であっても、普段は一市井人として暮らすスターを見たくもあるし、見たくない気持ちもある。夢から覚めたようなある種の幻滅を感じてしまうのが嫌なのだ。大方の世間のひとは、スターには普段もスターでいて欲しいのだ。芸能の世界の眩惑的な演出に馴れたわれわれとしては、幻滅を味わうのはいやだ。夢は見ていたい。現実に引き戻されるのは嫌なのだ。

 だが、結局スターも人の子。いつでもスターではいられない。人間なのであって、聖人君子なんかじゃない。お星さまでも神さまでもないのだ。つらければ泣くし、健康を損ねれば病気にもなる。恋もするし、失恋もする。異性にモテていてもしあわせとは限らない。

 けれども有村さん、しあわせになってください。