内田百閒作「山高帽子」を読む | 悠志のブログ

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ぷくぷくぷくぷくぷくぷく。

 海軍機関学校の同僚で、自ら命を絶った芥川龍之介をモデルに百閒が書いた短篇小説である。

 冒頭から只事ではない書きぶりで始まる。百閒の小説はどれも情景描写が事細かに綴られており、読み飛ばすことのできない雰囲気に溢れている。彼は作中の一文たりともおろそかにしない緻密な筆致で知られている。この作品、何か神経症を患った人間が書くような、いらいらするような書きぶりで始まる。気になる事を言った同僚に、「長」と言う字を執拗に使用して妙な手紙を書く有名な一節とともに、妻の妹が死にかけた時、蕎麦屋の二階で妻と話したというこの一節も何とも言えない不安をかきたてる。

 この場面、妻が丼を重ねているのを見ながら主人公の青地は言う。

 

 「十九で死んでは可哀想だな」

 「でも事によると、もう一度は持ち直すかも知れないと云う気もしますわ」

 「何故」

 「何故って」

 「駄目だよ」

 私は真蒼になって細君の顔を見た。それと同時に、細君の「あれ」と云う声が、引く息で聞こえた。そうして丼が二つに破れていた。

 「駄目だよ」と云ったのは、私ではなかったのだ。

 

 ここは映画「ツィゴイネルワイゼン」にも登場した場面で、映像によって生々しく再現された。幻聴というのは、統合失調症の症状の一つであるが、二人が同じ幻聴を同時に聞くというのは、どう考えてもおかしい。このことを種に野口という同僚は、青地の精神が尋常でないと言い張るのだ。このあたりの描写は真に迫っていて創作の匂いがしない。芥川は百閒の精神状態を疑っていた。しかし、客観的に観ていると、本当に危ういのはどう見ても彼の方なのだ。

 

 青地は祖母の夢を見る。それで墓参りをする気になるが、途中で気が変わり、何故か行きつけの料理屋の前に立っていた。「お一人様ですか」と言う女中に、青地は「いや二人だ」と言い張る。「後からいらっしゃるのですか」と言うと、「そこにいるじゃないか」と気味の悪い事を言う。冗談のつもりか本気か分らない。部屋に案内されると芸妓が来て、気味の悪い青地の相手をするが、そのうち狂人の話になる。その狂人も語学の先生だと言うが、話題になっている先生とは、野口つまり芥川のことではないだろうか。

 青地は広所恐怖症である。何もないだだっ広いところを見ると恐怖に襲われるのだ。一度陸軍の学校の校庭に雪が降り、足跡も何もない一面真っ平な雪原になったことがあった。青地はこの光景を見て、身体が竦み、震えあがった。この後教官の懇親会で、以前広所恐怖の話題に加わった小林という教官と、鴨志田という老教官が酔っぱらってぐにゃぐにゃと抱き合い、互いの顔をべろべろと舐め合っているのを見たような気がしたという、記述。こういう日常の中へ、獣じみた狂気を織り込むくだりに、百閒の言い知れぬ不安を感ずる。

 青地の血縁に気がふれたのではないかと噂される、慶さんという従兄がいる。何か細かいことを思いつめている。

 「手はどうして動くのだろう。不思議だ」。

 この言葉に共鳴する青地。自分で命じたわけでもないのに、思うより前に意のままに動く手。自分ではない別の生命体のようだ。百閒は日頃からこんな事を考え、自分の手が動くのを心底気味悪がっていた。それは生への根源的な畏れのように思う。百閒の研ぎ澄まされた感性が描き出した手への恐怖。ここに私は彼の澄みきった〝狂気〟を感ずるのだ。

 

 青地が借金苦のため、行方をくらましていた時、野口は彼がほんとうに死ぬのではないかと案じていた。無事帰って来た時、彼は大変喜んだようだが、その頃から急激に太り出した青地を見て、野口は物騒な事を言い出す。君、君のその顔は居なくなる前と比べるとまるで別人だ。いよいよ危ない。青地はその頃やけに眠く、昼も夜も昏々と眠りつづけた。

 統合失調症は通常不眠の状態に陥る。昼も夜も眠れない。睡眠時間は不規則になり、昼夜逆転した生活になることが多い。野口は青地を統合失調症だと疑っていたようだが、これほどよく眠れると言うのは、何か他の病気ではないのか。或いは特殊な精神状態にあるのではないのか。そんな気になる。

 一方の芥川は普段眠れないひとだったと聞いている。むしろ、統合失調症に近いのは、芥川の方ではないのかという気になってしまうが、どうなのだろうと思う。

 青地は目が覚めると、枕元のコップの水を飲んでまた眠ってしまう。だがその水が彼の飲まない内に無くなる事がある。家の者に水がないと言うと、さっき一杯に注いだと言われた。空のコップを見ると底が濡れている。だが、眠っている間に何者かに顔へ水をかけられた気がして起きた事がある。下では家の者の話し声。顔を触ると額の辺りが濡れている。何だか分らない声が眠っている間に聞こえて、目覚めた。はっきりしない声で、言葉かどうかも分らないし、誰の声か見当もつかない。面白くもない単調な夢を、幾度も繰り返し見た。見知らぬ男が二、三人、自分の顔を見ているだけの夢である。

 百閒の処女作品集『冥途』には「私は不意に水を浴びたような気がした」という文章表現が頻繁に登場する。彼独特の恐怖の表現方法であるが、本作では本当に水を浴びたようである。寝汗であれば、全身に汗をかいているはずである。何が彼の身に起きたのであろう。冷静に読んでいるとその尋常でない精神状態、非常に気がかりである。ただ、数少ない事柄のみをもって結論を出すのは控えたい。

 

 ある日学校の食堂が混んでいたので、近くにいた男に、君の腕を食いそうだと言ったら、そいつは何の返事もしなかった。青地は学校に通うのがだんだん億劫になった。

 野口を訪ねたら、暫く待たされた。出版社の人と女流作家がいる。じりじり待ったが、漸く彼が出て来た時、青地は驚いた。野口の顔が骸骨のように痩せてしまっており、顔色も失くし、しかも二重に見えたからだ。野口が傍らの客人と話している時に口を挟むと、彼は非常に驚いた顔をした。野口は青地が先刻からここにいるのに、「ああ、びっくりした。脅かしちゃいけないよ」と言った。野口は青地が後ろに立つのをひどく嫌がった。気配もなく後ろに立っているのが恐ろしいのだ。野口はいずれ自分の気が変になるのではないかと、その事を非常に恐れていた。その時の彼は窶れて病人のような顔をしていながら、反面非常な躁状態にあるとも言えた。

 屁でもないナンセンスな冗句に明け暮れる青地。狂気の湖に渡された綱を必死に落ちぬよう、落ちぬよう綱渡りしているかのような野口。青地にはまだ冗句を言うだけの精神的余裕があるが、野口には既にそんなものは露ほどもない。自分が狂うかも知れないという恐怖に、身もだえするほど怯えている野口なのだ。

 暗くなってから、野口はその場にいた出版社の人、女流作家、青地を連れて料理屋に行き食事をした。野口はずっと飲んでいた。青地は注意したが、無駄だった。しかし幾ら飲んでも彼の血の気のない顔はそのままだった。

 野口は幻聴を恐れていた。恐らく幻聴が聞こえた時、その時は自分の人生が終わる時だと決めつけていたのかもしれない。彼にはもう、一歩引いて自分を見つめることなど出来るはずもなかった。すでに彼は死へのカウントダウンを始めていたのかも知れない。

 

 家に帰ってから、部屋に座り窓を揺らす風の音を聞いていると、明日というものが得体の知れない化物のように思われ出した。

 人が自分の事をうるさいと思うほど、とやかく言うのが気になりだした。その根拠もあった。みな私を疑っている。私は精神病院に入院している人に、「君はどうしてそんな所に入っているのです」と訊いてみた。

 「そりゃあ君、意見の相違だよ」

 「そんな事はないでしょう」

 「皆私を気違いと呼ぶのだ。多数決なのさ。私一人が自分はまともだって言い張ったって、多勢に無勢だもの。敵うわけがない」。

 私はどうでもよくなった、せいぜい野口のことを気違いのふりをして脅かしてやろう。そう思ったら、愉快でたまらなくなった。

 風呂に入っていた。猫の唸るような声が聞こえた。湯舟から顔を出したが、猫ではない。こどもが泣いているのだろうか。いや、人間の声ではない。あれは獣の声だ。私は気味が悪くなってきた。違う。あれは小さなこどもがうなされているのだ。その声はいつまでも止まなかった。

 湯上りの私の顔を見て驚いたような事を妻が言った。私は和服の着流しに山高帽子を被って、野口の家に行った。暗くなっていたが、中々取次が出てこない。しばらく待っていると正面の襖が開いて野口が顔を出した。が、すぐに奥へ消えてしまった。「ちょっと」と言ったらしかった。よくわからない。

 その後も玄関で待ちつづけたが、誰も出てこない。気づくと後ろで見知らぬ男が頭を下げている。

 「お待ちかねでございます」。

 私は古柳庵に案内された。そこには野口がいて私を待っていたようだった。傍らに近所の石井君がいた。野口は前よりも更に痩せた顔をしていた。口もとがおかしく、人間が違っているような気がした。さっきのことを尋ねたが、要領を得ない。

 酒を飲み、飯を食った。飯の後で話をした。夜中に夫が目を覚まし、水が飲みたいという。妻はうるさいと思い、いい加減にあしらってそのまま寝かしてしまった。しばらく経って、妻が起きてみると、夫は傍らで死んでいた。丁度その時窓から鼠が入ってきて、夫の開いた口の中に飛び込んでしまった。すると夫の身体が生気を取り戻し、そのまま眠りつづけた。

 フリードリッヒ・ランケの話だと言う。石井君は眠るのが恐ろしいと言った。神経衰弱の話をした。野口は文楽の話をし、あの人形は不気味だと言ったが、何を話しても、彼は平素とは違っていた。私は彼を脅かそうとする気持ちがきれいさっぱり無くなっているのに気がついた。

 

 野口が自分の新刊の著書を持ってきてくれた。扉に署名しながらこんな事を言った。

 斎藤だよ。気が違ってしまったのだよ。気の毒に。

 私はろくに学校へ行かなくなった。億劫でもあり、気ばかり焦って何もできずにいたのだった。

 「君は自殺する勇気もない」

 「どうせいずれ死ぬんだ。放っておいてくれたまえ」

 「君のことは僕が一番よくわかるんだ。傍でいくら言ったって、君はその通りにならない。もう行こう。ここらで車は拾えないか」

 私は瞼の裏が滲むような気がした。野口は出て行った。

 それから、逢うたび野口はパイプをくわえたまま、眠っているようだった。首も手もぐにゃぐにゃで、頼りなかった。尋ねると、睡眠薬を飲みすぎて、眼が醒めないのだと言う。言葉もやっと文章の形を成しているといった風だった。それからは、いくら尋ねかけても、要領を得ない返事が返ってくるばかりで、いつも頸を垂れ、眠りこけているのだった。だがその時は、まさか二日後に自殺するとは思わなかった。彼は平素から、麻睡薬を過量に飲んで、最後の日の準備をしていたのだ。だが私にはそうとは思われなかった。

 或る夜明け、私は自分の声に驚いて目が覚めた。ひどく大きな声だった。何を言ったのかわからない。悲鳴を上げるような夢を見ていたわけではなかった。怒ったのかも知れなかった。窓を見るとまだ真っ暗だった。季節外れの稲妻が光っていた。私はまた眠ろうとした。蒲団を引きすぎて、唇を蒲団の袖が撫で、ちょうど水に溺れかかっているような気がした。

 

 きめの細かい情景描写だが、底辺に流れているのは、色濃い哀しみであり、自分が狂うかも知れないという恐怖感であり、死への不安感であり、生存に対するいわれのない焦燥である。芥川がモデルだという野口の最晩年は、睡眠薬の過量摂取に明け暮れた。彼は何故そんなことをしたのか。自分が発狂するかもしれない恐怖に、ついに押しつぶされてしまい、そこから逃れるため、たまらずそのような事を思いついたのか。狂気とは何か。生きるとは。野口は逢うたびに、気味の悪いほど痩せていった。そしてある時は人の制止も聞かず、酒を飲み、次第に自分というものを無くしていった。最後の頃は人間が違っていた。そして、睡眠薬を過量に摂りはじめ、死への準備に突入していった。そうなってからは、誰の言うことも彼には通じなかった。眠っていたし、言っても何一つ聞いてはいなかった。自殺する人間の一つの心理状態を的確に表すと、こんな感じなのではないだろうか。この境地まで行ってしまうと、もう誰にも連れ戻せないのではないのか。強引に連れ戻そうとすれば、自分も帰ってこられなくなってしまう。そう言う世界なのだ。

 百閒との友情は死の直前まで続いていたようだが、狂気の同胞のような意識も芥川にはあったのかも知れない。とにかくこの『山高帽子』、死の間際の芥川の様子が赤裸々につづられており、それは二人の人間の生きざまを描いたものとしては、あまりに悲痛で、正視に耐えない。これを哀れと言っていいものかどうか。そんな気持ちにさせる。ともかく、内田百閒と芥川龍之介の魂に肉薄した一篇であることは間違いない。