先日、霞ケ浦周航の歌があるとお聞きしたことはブログに書きました。

https://ameblo.jp/sougousenryaku/entry-12857801505.html

 

 

後ろの看板は移動したいですね・・・

 

 

 

 

霞ヶ浦水質調査研究会の会員でラスクマリーナ元専務・秋元昭臣さんから、霞ケ浦周航の歌(霞ケ浦周航歌)を教えていただきました。この歌の歌碑が歩崎公園にあり、禅研究者で作詞家の「赤根祥道」が作詞、「安田優」作曲ということで、早速、YouTubeで聞きましたが、格調のある素晴らしい曲です。

https://www.youtube.com/watch?v=_WAl82yQ-uA

 

私は学生時代を京都で過ごしましたが、ほんの最初だけ京都や奈良、大阪、神戸などをめぐるだけで、琵琶湖周辺には足を踏み入れじまいで、卒業してしまいました。

 

卒業してから50年以上、せっせと京都や奈良を始めとした近畿地方の名所旧跡を訪ね歩いています。つい先日も、関ケ原や伊吹山、彦根や長浜などを歩いて来ました。琵琶湖に浮かぶ神の島・竹生島にも上陸してきました。

 

琵琶湖を歌ったのが、有名な「琵琶湖周航の歌」です。元々は旧制第三高等学校(現在の京都大学の前身)ボート部の歌ですが、関西地方では広く愛唱されていたということです。その「琵琶湖周航の歌」が全国区になったのは、東京大学卒業の当時の人気歌手加藤登紀子がアルバムに収録しヒットしたことが始まりでした。発売は1971年と言いますから私の学生時代とすっぽりかぶる時代です。

 

琵琶湖沿岸には、琵琶湖周航の歌の歌詞に登場した地名には、それぞれ歌碑があります。竹生島にも彦根にもありました。

 

 

 

今日、所用で鉾田市を訪れた帰路、かすみがうら市「歩崎公園」に立ち寄って来ました。旧かすみがうら市が整備した公園内には、かすみがうら市交流センター、歴史博物館や水族館、あゆみ庵、民家園などとともに、台地に森林公園や湖岸園地が整備され、水辺と木々の緑が相まって絵のような光景が広がっています。また、観光帆引き船も操業され、観光スポットとして人気になっています。

 

 

 

 

 

 

 

 

観光帆引き船の見学もしたかったのですが、予約のみで満員だということで残念でしたが、周辺を散策し素晴らしい景観に浸ってきました。もう一度訪れたい場所です。

 

真ん中に白く2つの点が見えるのが観光帆引き船。三又湖心あたりです。これを見に桟橋から船が出航します。阿見町でも国体の際、浮桟橋が整備されましたが、残念ながら波で損壊、撤去されてしまいました。

 

 

 

その公園の一角に、霞ケ浦周航の歌(霞ケ浦周航歌)の歌碑が立っていました。少し小さめですが、前面に広がる霞ケ浦と三又湖心が遠望できます。霞ヶ浦周航の歌は、格調のある素晴らしい曲です。霞ヶ浦沿岸の人々によって口ずさむことが出来るよう広めたいと思います。また、歌詞にあるそれぞれの地で、歌碑が建立されることを希望したいと思います。残念ながら、阿見町が歌詞に出てこなかったことは心残りですが・・・

https://www.youtube.com/watch?v=_WAl82yQ-uA

 

霞ヶ浦周航歌(霞ケ浦周航の歌)

作詞 赤根祥道

作曲 安田 優

 

1 筑波の嶺をあとにして

  花の筏の桜川

  亀城(きじょう)の櫓(やぐら)壁白く

  めざすは霞浦(かほ)の湖(みずうみ)ぞ

2 霞浦の川面は波静か

  帆曳きの影もあざやかに

  古き江戸崎港(みなと)には

  天海和尚 不動院

3 お江戸廻船あとしたい

  古渡(ふっと)の渡しすぎゆきて

  夢の浮島志太(しだ)の館(たて)

  広がる稲穂 和田岬

4 三又(みつまた)すぎて潮来には

  娘船頭 赤だすき

  あやめの園や十二橋

  水郷うれし潮来節

5 鹿島の月は高くして

  俳聖芭蕉旅衣(たびごころ)

  仏頂(ぶっちょう)禅師したいたる

  根本寺(こんぽんてら)の句碑古し

6 剣聖卜伝 磨きたる

  天下無双の剣の道

  鹿島の社(やしろ) 森深く

  タケミカヅチの武をたたう

7 麻生の浜は 天王崎

  歴史も古き玉造

  国府石岡 万葉の

  歌人(うたびと)の跡 ここかしこ

8 歩崎(あゆみざき)なる観音寺

  望めば遠く富士の山

  一望千里はてしなき

  利根の恵みの大平野

9 朝の光に輝きて

  霞ヶ浦町生まれたり

  二万の町民(まちびと)睦み合い

  希望の未来へ進みゆく

岡野塾長   南秀利講師   海野

 

今日は、尊敬する岡野龍太郎先輩が主催する「岡野龍太郎塾」の歴史講和「咸臨丸でアメリカに渡った航海長ー小野友五郎の軌跡」を、じっくりとお聞きしてきました。講師は郷土史家の南秀利さんで、お聞きすれば私の高校の先輩でした。先日、県立歴史館にて近代茨城県を代表する4人の先人展が開催されて、小野友五郎、長久保赤水、菊池謙二郎、岩上二郎の生涯について紹介していました。4人の中で小野友五郎だけ知りませんでした。

 

小野友五郎を伝えてゆく会 (tomogorou.com)
 

南秀利さんは、

「笠間塾という地元の小さな集まりで、小野友五郎の話をしていたら、岡野さんが笠間だけで話しているだけではもったいないから東京で話せと言われて、今日来た。」

「東京で生まれて、東京大空襲の時には北千住に住んでいた。大火で真っ赤な東京の様子を見ていた。」

「東京から疎開して鹿児島県の阿久根市に移り、終戦まで過ごした。」

「茨城大学を卒業後、教職に就き、各自治体の市史編纂に携わる中で、小野友五郎を知るに至り、このような傑出した人物が郷土の先達にいたかということで研究している。」

という自己紹介の後、小野友五郎の生涯と業績について話が進みました。

 

小野友五郎の業績として以下の点を挙げていました。

1 国産初の蒸気軍艦・千代田型艦の建造

2 江戸湾の海防計画の構想

3 横須賀製鉄所建設の推進、横須賀造船所・海軍工廠の建設

4 小笠原群島の調査、実測図の作成。領土への道筋

5 再渡米での軍艦、武器、科学技術書の購入

6 日本最初の鉄道(新橋・横浜間)、東海道・東北鉄道の調査

7 中央天文台の設置。漢字の制限(常用漢字)の提言

 

私は、南さんのお話をお聞きして、それに加えて「製塩業」への貢献をあげたいと思います。

 

実は、私は最近まで、小野友五郎について全く知りませんでした。幕末、明治初期にこのように活躍した郷土の先人がいたことを茨城県内でも知らなかったということは、全国的知名度は全くと言ってよいほどありません。歴史の中に埋もれてしまった人物ということになります。その理由についても話されていました。つまり、歴史は勝者がつくるということです。幕末の英雄咸臨丸の勝海舟、慶應義塾を創設した福沢諭吉という勝者が小野友五郎を歴史の中に閉じ込めたということだと思います。詳細は、ホームページでご確認下さい。

 

幕末から明治にかけて、日本は近代国家への大きな転換点を迎えます。小野友五郎も、その歴史の激流の中で翻弄されながらも、テクノクラートとして誠実に近代日本の国造りに尽力しました。

 

そんなことを思いながら、大きな刺激を受けて今回の岡野龍太郎塾も終了しました。

 

岡野龍太郎塾は、岡野先輩が師事した故森田実先生の「森田塾」の「平和主義」と「日中友好」の2つの理念を継承して立ち上げたもので、国内外の諸課題について研鑽を深めようとするものです。勉強会に参加されたい方々は、ご連絡下さい。

 

毎月2回ほど行っているれいわ新選組の宣伝活動を、荒川沖駅東口で行いました。何回か雨で中止となりましたが、曇り空ながら何とか天気も持ってくれました。

 

れいわ新選組は、ボランティアの方々が中心の国政政党で、今回もボランティアの応援をいただいて気持ち良く、駅頭の挨拶活動を実施することが出来ました。

 

 

一度よりは二度、二度よりは三度、三度よりは四度、回を重ねるごとに頷いてくれる方々も増えていきます。挨拶活動後は、軽く食事をしながら打ち合わせを行って情報共有しています。