阿見町石川地区に入る町道わきに「竣工記念碑」が建立されています。

 

「竣工記念碑」という文字は、当時の茨城県知事岩上二郎氏が揮毫したものです。岩上二郎氏は私と同じ那珂市出身です。旧瓜連町長・茨城高等学校長・清真学園理事長、参議院議員などを歴任しました。県知事時代は農工両全のキャッチフレーズのもと現在の鹿島コンビナートの整備や県歴史館、参議院議員としては公文書館法などの整備に尽力しました。那珂市名誉市民。奥様の岩上妙子氏も参議院議員を歴任しました。

 

記念碑レリーフは当時の清明川土地改良区理事長「石引鼎(いしびきかなえ)」氏で、碑文も石引鼎によるものです。す。この場所に、霞ヶ浦方面を眺めるように建っています。この「竣工記念碑」があることは前から知っていましたが、碑文全文を読んだのは今日が初めてでした。

 

そういえば、岩上二郎氏も、那珂市の生誕地裏の山裾に、阿武隈山地を眺めるように記念碑と墓所があります。

 

石引鼎氏は、1959年4月30日投票の阿見町長選挙に出馬しています。現職の桜井文太郎氏が引退し、旧朝日村長だった池田静喜氏、旧君原村長だった石引鼎氏(阿見町議長も歴任)、旧阿見町長だった丸山銈太郎氏(阿見町議長も歴任)の三つ巴でした。

 

 

以下碑文

 

清明川流域水田は、天水地帯にして年々歳々旱害を被り亦水害を受け安定せる営農が出来ず特に昭和二十三年仝二十四年の二カ年続きの未曾有の大旱魃遭遇し収穫皆無の大被害を受け経済的に精神的に実に塗炭の苦しみを受けた。ここに於いて霞ヶ浦より揚水の必要を痛感し君原村舟島村木原村布佐地区農民一体となり君原村外二ヶ村水利組合を結成したが実現に猛運動を起し昭和二十五年県並に農林省の認める処となり壱仟六百万円の予算にて県営事業として掛馬揚水機場導水路七百米幹線用水路四千米の工事の工事に着手翌二十六年完工を見た。翌二十七年より団体営事業として年次工事計画による事業に着手総額壱仟五百万円の予算を以て区割整理百町歩工事を進め十年の歳月を費しあらゆる艱難克服して三十五年三月計画全地域の竣工を見た整理地区耕地の配分に当り団地計画による交換分合を基本に推進し農業の機械化に共なふ営農計画の改善に光明を與へたこの苦難十年の間組合総代役員並に関係官庁の御援助御協力に対し感謝の意を表し竣工記念の碑を建てる。(ママ)

 

昭和三十五年十一月

清明川土地改良区理事長 石引 鼎撰並書

 

 

修正記録 20240624

 

このブログについては、2024年6月24日に修正しました。元阿見町議長で現在清明川土地改良区理事長の渡辺登さんからご連絡をいただき、レリーフは当時の理事長である石引鼎氏で、岩上二郎氏は「竣工記念碑」という文字を揮毫した、という指摘を受けました。完全な私の勘違いで、誤った事実を残すところでした。感謝します。少し早とちりでした。

 

岩上二郎氏は、朝日中学校校長室に立派な掛け軸が掲げられています。県内あちこちに岩上二郎氏の足跡があるのを見つけるのも楽しみです。