中井川浩と茨城大学農学部
/霞ヶ浦高等学校
 
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いま手もとに「中井川浩の横顔」という追悼集があります。郷土の発展と産業振興に尽力した「一世の風雲児」である衆議院議員中井川浩の3周忌に刊行されたものです。以前から、中井川浩の資料を探しておりましたところ、土浦市の古本屋「ヒロ書房」で偶然見つけたものです。
 
中井川浩は土浦市に住居があり、土浦町議会議員が政治家としての出発だったことを考えれば、土浦の古本屋にこの本があることは不思議ではありません。しかも、ヒロ書房がもともとは阿見町にあり土浦に移転してきたなどということを聞くと、何かさらに縁を感じるのです。
 
中井川浩は明治33(1900)年9月25日茨城県那珂郡木崎村門部(現茨城県那珂市門部)にて生まれ、警視庁警察官だった父の仕事の関係で東京の小学校に入学します。その後、父が茨城県警察官となり県内の小学校を卒業し、水戸中学校(現在の水戸第一高等学校)に進学します。3年生の時に教師の批判を試験答案用紙に書き連ね退学処分となってしまいます。
 
やむを得ず日本中学に編入し大正8(1919)年に卒業し、日本大学専門部2学年終了とともに中退し、やまと新聞社に入社して水戸支局に勤務します。大正11(1922)年に報知新聞水戸支局に移り、すぐ土浦支局長に抜擢され時の茨城県知事守屋源次郎の暴政を徹底的に攻撃し、10月には守屋知事は休職してしまいました。
 
大正14(1925)年には夕刊茨城民報社を創立しますが、いはらき新聞社と合併し取締役となります。昭和2(1927)年には土浦市にサクラ印刷所を創設します。
 
昭和4(1929)年に土浦町議会議員に当選し、同6(1931)年には若槻内閣の鉄道大臣だった原脩次郎の大臣官房事務嘱託となります。また、同年行われた茨城県議会議員選挙で出生地である那珂郡選挙区から出馬し当選、翌7(1932)年には茨城県第2区から衆議院議員に当選しました。中央政界では、大臣秘書官をつとめるなど幅広い人脈形成を成し遂げました。
 
また、昭和13(1938)年6月の土浦大水害や久慈川の治水など郷土の為にも大いに尽くしました。国会では政務次官となった厚生省や文部省、陸軍関係に強みを発揮しました。その後、中央政界で終戦まで活躍を続けました。
 
戦後は大政翼賛推薦議員であったためGHQから公職追放の対象となりましたが、第二次世界大戦後の食糧不足に鑑み、阿見町にあった旧海軍霞ヶ浦海軍航空隊跡地・土浦海軍航空隊予科練跡地の文化的再利用を目的として、現在の茨城大学農学部及び霞ヶ浦高等学校の前身となる財団法人霞ヶ浦農科大学を、霞ヶ浦干拓工事等に携わっていた株木建設の社長株木政一らとともに創設し、創立理事長に就任したり、常陸セメント株式会社の会長に就任したり、茨城石炭株式会社を創立したりと活躍しました。
 
多くの事業を手掛け、人脈を駆使し、戦後の活躍を期待されましたが、公職追放になったことや体調を崩して、惜しまれながら昭和24(1949)年11月3日に死去しました。死後の昭和26(1951)年追放解除となりました。
 
中井川浩の人柄を語る多くの方々の追悼文には共通して、「情義に厚いこと」「熟慮断行」「頭脳明晰」であることを挙げています。私も、那珂市で生まれ、現在縁あって阿見町で議会議員となっていますが、中井川浩は何か不思議な縁を感じる人物です。茨城大学農学部が大学改革で、いったん那珂市へ拠点を移す決議をした経緯があることなども縁を感じる要素です。ちなみに那珂市史では中井川浩の業績が正当に評価されておりますが、阿見町史では影が薄くなっているのは残念です。(敬称略)