樋口健二さんが見たJCO事故翌日の東海村
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9月25日(日)から10月1日(土)まで、東海ステーションギャラリー(JR 東海駅 構内)で写真展「樋口健二さんが見たJCO事故翌日の東海村」が開催されています。主催は、臨界事故を語り継ぐ会(大泉さんの会)と脱原発とうかい塾(代表・相沢一正さん)です。
 
茨城県では1999年9月30日東海村で住宅地に隣接した原子力燃料工場で、JCO臨界事故が起きました。作業員2名が死亡し1名が重症、667名が被曝しました。周辺500メートルの住民に避難勧告、10キロメートルの10万世帯30万人以上が屋内退避という大事故でした。農産物にとどまらず茨城県産の工業品まで風評被害で損害を受けるということがありました。
 
最近は、さまざまな事件の記憶もすぐに遠くになりますが、その記憶も薄れつつあった3月11日に、東日本大震災と巨大津波そして東京電力福島第1原発震災事故が発生し、日本全体が今日まで続く重苦しい状況に陥っています。
 
当時、私は県議会議員の職にあり、発生時にはJCOの事業所とは数キロしか離れていない事務所で人と会っていました。事故発生は、友人からの「大変なことになっているようだな・・・」という電話で知りました。すぐにテレビをつけると、NHKニュースが延々と流れていました。
 
すぐに現地に向かいました。検問を通り、事故のあった工場からは数百メートルしか離れていない本米崎小学校に立ち寄り、校長先生にお会いして事情を聞きましたが、市役所からは明確な指示がないまったくの情報過疎に陥っていることが明らかになりました。その後、東海村役場に立ち寄り、情報収集を行い、市役所にも立ち寄って市の対応を確認し、県庁に向かいました。
 
深夜まで、県の対策本部に詰めて、次の日に国会議員が現地視察をするということになり東京との連絡に当たっていました。
 
次の日に、東海村をあらためて現地視察をしましたが、東海村に通じる道路は至る所検問が敷かれていました。今回、鉢呂経済産業大臣が、原発震災事故によって住民が退避している福島県を視察した感想を「死んだまち・・・」と表現したことが批判を受けて辞職しましたが、当時、私は「戒厳令の敷かれたまち・・・」と表現しました。
 
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そうした、東海村JCO臨界事故直後に現地に入り、写真家として記録した樋口さんの写真をあらためて拝見すると、当時の記憶がまざまざと甦ってきました。どの写真も不安と悲嘆にくれた住民の顔を記録しています。翌日10月1日の地元紙、茨城新聞と新いばらき新聞も無料で配布していました。必見です。