毎月2回ほど行っているれいわ新選組の宣伝活動を、荒川沖駅東口で行いました。何回か雨で中止となりましたが、曇り空ながら何とか天気も持ってくれました。

 

れいわ新選組は、ボランティアの方々が中心の国政政党で、今回もボランティアの応援をいただいて気持ち良く、駅頭の挨拶活動を実施することが出来ました。

 

 

一度よりは二度、二度よりは三度、三度よりは四度、回を重ねるごとに頷いてくれる方々も増えていきます。挨拶活動後は、軽く食事をしながら打ち合わせを行って情報共有しています。

 

君原地区には、個人を顕彰する多くの石碑が建立されています。君原公民館周辺には、大きな石碑が3つあります。先日は、東日本銀行の東京進出の立役者で地元出身の「栗山隆一」についての碑文をご紹介しました。

 

 

今回は「中山倉夫碑」をご紹介します。実は、こうした町内にある石碑については、調査がなされており記録に残されているとばかり思っていました。記録に残っているなら苦労して書き写さなくとも、それをご紹介すれば良いと安易に考えていました。図書館に紹介したら、司書の方は親切に調べていただきこれまで阿見町が記録として残しているものを用意して説明してくれました。その結果、阿見町では石碑碑文の調査はこれまで一切行われていなかったということが判明しました。残念ですが、阿見町行政の文化への関心のなさを、改めて実感しました。

 

この碑文は、文字が薄れており、なお、私に基本的な知識がないために碑文を記録することは出来ませんでした。どなたか、この碑文の正確な内容を教えていただければ幸いです。

 

 

NO.35 阿見町名所百選「中山倉夫碑」

中山倉夫は旧君原村塙の素封家に元治元年(1864)出生、その生涯を地方自治と教育事業に捧げ、明治44年県議会議員に当選した。

彼の大事業は、明治10年以来分立していた君島、追原、飯倉各小学校を明治41年君原尋常高等小学校として統合整備した事である。統合問題で、村民は清明川を挟んで15年にわたり紛糾し、この間追原蔵福寺を本校に利用したことは有名である。

大正8年4月県議、村長在職中、54歳の若さで病没した。

阿見町教育委員会

 

 

なお、ホームページに紹介されている石碑碑文の説明では以下のように紹介されています。

この碑は旧君原小学校の跡地に建てられています。中山倉夫は、元治元年(1864)に旧君原村塙の旧家に生まれました。明治25年(1892)から大正5年(1916)まで25年間学務委員として教育事業に専念し、この間収入役、村議、村長2期、県会議員2期を務めました。特筆すべきは、明治10年(1877)の創立以来分かれていた君原、追原、飯倉の3小学校を統合したことです。村長第1期目の時に統合の提案をしましたが、敷地問題と旧村感情で村を二分する紛争となってしまいました。対立時代の15年間に、校舎倒潰(とうかい)により追原にある蔵福寺で寺子屋教育が行われました。村長第2期目の時に、田崎吉太郎氏等の土地提供や整地によって、現在の碑の近くに君原尋常高等小学校が創立されました。君原地区は、この事業と熱心な教育者によって多くの優秀な若者が誕生しました。倉夫は大正8年(1919)4月県議、村長在職中に54歳の若さで急逝してしまいました。碑は彼の偉業をたたえ、旧君原尋常高等小学校跡地の近くに、大正13年(1924)3月に建立されました。

 

石碑碑文には以下のように書かれています。

 

「熈庶績」※きしょせき 多くの輝かしい実績

 

世の為めに盡すハ(は)人生の快事にして又最も貴きわざなり されど之を〇〇〇の人に望む能〇〇餘力あるものにして始めて為し得べし志かも 為し得べくして為さざるもの多し〇〇に故中山倉夫君の如きハ世の為めに為し得べき人〇して為すべきを為し、なり状〇按ずるに君は稲敷郡君原村の素封家〇して衆望を負ひ〇て一村〇公〇は一として君に委せられ〇るハなく君亦喜んで之に當れり 明治二十五年に居村の學務委員とな〇大正五年に至るまで二十五年〇久しき其の職に在り 其の間村人〇推舉に当たり或は村會議員となり或ハ収入役となり或は村長となり或ハ村教育長となりぬ 〇〇他ニ再び懸會議員に選〇れ一たび〇事會員となり尚ほ再び村長に舉げられ大正八年懸會議員及び村長在職中に遠逝せり 君は〇に其の〇生を公共の為めに盡し私財の一半を之が為めに費せりしを君の公職に在るや毫も私心を挟まず専ら公益を圖ること〇念とせり〇ら 三校併合の如きは其の一端なり〇君原村に三箇の小學校あり君島追原及び飯倉の三大字各其の一を有せ志が〇経費多きを要して施設却て全きを得ず 明治三十五年君村長の職に在りし時之を憂へ併合して一校となさんと〇議を村會に提出せり初め衆論徐々たりしが君の熱誠ハ遂に可決を見るに至らしめ〇大正五年其の決議に基つき校舎を新築せり爾来村人其の利便と整頓と〇思い君を徳とせざるものなしといふ君逝きてよ〇既に五年村人君の事績にを顧ふこと〇〇し〇なり ここに相謀りて記念の碑を建てんとす 椎ふに君は在〇し世に盡すべき〇盡して快く世を去り給いしならむ 村民の至情ハ永く其の徳を傳へんとして壮挙あ〇嗚呼君の遺徳は人に感〇し人の至情ハ凝つて〇碑となる徳〇ならまる必ず隣あり君原の里長の幸あるべし

大正十三年三月

 

文部大臣従三位勲一等江木千之篆額 菊池謙二郎撰 中嶋幸次郎書

 

阿見町に所在する日本初のアメリカ人盆栽師である「アダム・ジョーンズ」さんの「ツリーハウスボンサイTree House Bonsai」を久し振りに訪ねてきました。

 

阿見町に盆栽園を開設してから、もう6年目になるということです。そういえば私のブログで初めてご紹介したのが、20年1月の事でした。その後お訪ねするたびに、新たな発見と驚きがありました。

https://ameblo.jp/sougousenryaku/entry-12566083183.html

 

 

マネージャー・イケメンです

 

初めの頃は、盆栽園がこの阿見町で成り立つのだろうかという心配がありましたが、マネージャーや弟子なども徐々に増えて、盆栽園も大規模な改修が行われ、イメージが一新しました。盆栽園はヨーロッパ、アメリカ、東南アジア、アフリカ、中東など世界を視野に輸出を計画しているということで、大いに期待できます。

 

お会いするたびに、アダムさんが、阿見町は素晴らしい、こんな良いところは見当たらない、と言ってくれるたびに、地元の議員としては嬉しくお聞きしています。阿見町に住んでいることが誇りに思えるような激励の言葉だと受け止めています。

 

 

観光庁のインバウンド対象の魅力ある地方のコンテンツとして、阿見町は「ツリーハウスボンサイTree House Bonsai」を全国に発信するとともに、ワールドワイドで売り出す必要があると思います。

 

盆栽の輸出は、単なる機械器具や農産物の輸出では測れない価値を持っています。盆栽は日本の文化そのもので、いわば日本の価値観や日本人のメンタリティーを外国人に紹介することになるのではないかと思います。今後も、盆栽園が成功するための協力をしたいと思っています。